桑山塔ノ尾古墳
所在地山口県防府市桑山1丁目
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度2分50.33秒 東経131度34分4.58秒 / 北緯34.0473139度 東経131.5679389度 / 34.0473139; 131.5679389
桑山塔ノ尾古墳(くわのやまとうのおこふん)は、山口県防府市桑山にあった古墳。現在では墳丘は失われている。
実際の被葬者は明らかでないが、出土遺物埋納地が宮内庁により第31代用明天皇皇子の来目皇子の殯斂地(仮埋葬地)に治定されている。 山口県南部、防府平野中央部の桑山(標高107メートル)中腹の小丘頂部に築造された古墳である[1]。江戸時代に発見され、その際に墳丘は破壊されて出土遺物が桑山山頂に再埋納されている[1]。 墳形は明らかでない(一説に円墳とも前方後円墳とも)[1][2]。墳丘外表では円筒埴輪・形象埴輪が認められている[1]。埋葬施設は、古文書の記録から横穴式石室と推定される[1]。石室内からは豊富かつ秀逸な副葬品が出土しており、特に後期古墳でありながら銅鏡2面を副葬する点、朝鮮半島との交流を示す金銅製飾履・蛇行状鉄器などを副葬する点で注目される[1]。 築造時期は、古墳時代後期の6世紀前半頃と推定される[1]。防府平野では古墳時代後期から代表的古墳が築造されるようになるが、本古墳はその嚆矢的な位置づけにあり、畿内ヤマト王権・朝鮮半島との交流および防府平野の開発を巡る当時の政治情勢を考察するうえで重要視される古墳である[1]。被葬者は明らかでなく、前述のように現在は出土遺物再埋納地が宮内庁により来目皇子(603年死去)の殯斂地(仮埋葬地)に治定されている。これは江戸時代の『桑山古墳私考』以来の説であるが、現在の学術的には古墳の性格および築造年代の点で否定的である[2]。一方、真の仮埋葬地については大日古墳(防府市高井)に比定する説が挙げられている[3]。
概要
遺跡歴
天明5年(1785年)、第7代長州藩主の毛利重就による隠居後の納涼亭建設中に発見。副葬品が多数出土し山頂に再埋納[1][2]。
文政5年(1822年)、斎藤貞宜が遺物を再検証し『桑山古墳私考』を著して図説。来目皇子の仮埋葬地とする説を提示[1][2]。
天保13年(1842年)、長州藩の『防長風土注進案』編纂の際に、三田尻宰判が遺物を再検証し絵図作成[1]。
1902年(明治35年)、宮内省(現・宮内庁)により遺物再埋納地が来目皇子の殯斂地に治定[1]。