東京女子大学名誉教授で法学者・教会法学者の「桑原武夫 (法学者)
」、脳神経外科学者・医師で1927年生まれの「桑原武夫 (医師)」、あるいは慶應義塾大学卒の社会学者の「桑原武夫 (社会学者)」とは別人です。この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2017年2月)
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誕生1904年5月10日
福井県敦賀郡敦賀町蓬莱[1]
死没 (1988-04-10) 1988年4月10日(83歳没)
日本 京都府京都市左京区
墓地金戒光明寺
職業仏文学者、評論家、登山家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴京都帝国大学仏文科[2]
文学活動近代主義
代表作『第二芸術?現代俳句について』(1946年)
『文学入門』(1950年)
『ルソー研究』(1951年)
主な受賞歴毎日出版文化賞(1951年)
フランス共和国国家勲功騎士章(1966年)
勲二等瑞宝章(1974年)
朝日文化賞(1975年)
日本芸術院会員(1977年)
文化功労者(1979年)
文化勲章(1987年)
レジオンドヌール勲章(1987年)
贈従三位・勲一等瑞宝章(1988年,没時叙位叙勲)
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桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉4月10日)は、日本のフランス文学・文化研究者、評論家。京都大学名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。人文科学における共同研究の先駆的指導者でもあった。芸術・思想・社会・教育など文化全般に通じ、共同研究を推進。その成果は『ルソー研究』(1951年)などの著作に結実した。『第二芸術ー現代俳句について』(1946年)での俳句批判は物議を醸した。 福井県敦賀郡敦賀町蓬莱(現・敦賀市)の出身[1]。父は京都帝国大学教授で東洋史専攻の桑原隲蔵(じつぞう)。敦賀は里帰り出産(両親とも同地の出身)の地であり、このような場合は京都生まれと称するのが通例だが、本人が敦賀に愛着を持ち出身地として記載を続けた。 京都一中、三高を経て、1928年(昭和3年)京都帝国大学文学部仏文科卒業[2]。三高講師、旧制大阪高校教授兼京都大学文学部講師を経て1943年(昭和18年)、東北帝国大学法文学部助教授[3]。1948年(昭和23年)、京都大学人文科学研究所教授、1959年(昭和34年)同所長、1968年(昭和43年)定年退官、名誉教授。 スタンダールやアランの研究により、フランスの文学や評論を広く日本に紹介した。父・隲蔵と交流のあった西田幾多郎や内藤湖南ら戦前の京都学派の碩学の謦咳に早くからじかに接し、戦後は同年代の吉川幸次郎や貝塚茂樹など京都学派の中心的存在として、さまざまな文化的ムーブメントに主導的な役割を担った。 フランス文学にとどまらず、深い学識と行動力は多方面に及び、俳句を論じた「第二芸術」(『世界』1946年)は論議を呼んだ[4][5]。 また、京都大学人文科学研究所(京大人文研)を本拠としてさまざまの分野の研究者を組織し先駆的な学際共同研究システムを推進、『フランス百科全書の研究』『ルソー研究』(1951年毎日出版文化賞)、『宮本武蔵と日本人』など日本の人文科学分野における数々の業績を通じて、梅棹忠夫、梅原猛、上山春平、鶴見俊輔、多田道太郎ら多くの文化人の育ての親となった。加藤秀俊、松田道雄、黒田憲治、井上清、梅棹忠夫、河野健二らとは「日本映画を見る会」を結成し、チャンバラ映画やメロドラマを批評の対象にした[6]。1976年、鶴見俊輔、多田道太郎、井上俊、津金沢聡広らと現代風俗研究会を創設(桑原が初代会長)[7]。 京都大学人文科学研究所が東方文化研究所から引き継いだ資料[注釈 1]に雲崗石窟群のまとまった写真や記録がある。第二次世界大戦を挟んでそれを報告書にまとめようと、水野清一と長広敏雄たちが企画するものの難航していた。同じ研究所にいた桑原はこの『雲石石窟調査報告書』刊行について、吉田茂と面談予定のフランス人の知己に状況を説明、間接的に同意を引き出し、同書は1951年の発刊に至る[9]。
来歴・人物