桐_(松型駆逐艦)
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艦歴
発注1942年戦時建造補充(改マル5)追加計画
起工1944年2月1日
進水1944年5月27日
就役1944年8月14日
除籍1945年10月5日
その後1947年7月29日賠償艦としてソ連に引き渡される。ソ連海軍にて1969年まで使用。
性能諸元
排水量基準:1,262t
公試:1,530t
全長100.00m
全幅9.35m
吃水3.30m
主缶ロ号艦本式缶2基
主機艦本式タービン2基2軸 19,000?
速力27.8kt
航続距離18ktで3,500海里
燃料重油370t
乗員211名/257名[1]
兵装40口径12.7cm単装高角砲 1基
40口径12.7cm連装高角砲 1基
25mm三連装機銃 4基
25mm単装機銃 8基
九二式61cm4連装魚雷発射管 1基
(予備魚雷なし)
爆雷投射機 2基 爆雷投下軌条 2基
二式爆雷 36個
電探二号二型(対水上用)
一号三型(対空用)
水測装置九三式探信儀
九三式水中聴音機

桐(きり)は、大日本帝国海軍駆逐艦松型(丁型)の6番艦である。日本海軍の艦名としては2代目(初代は二等駆逐艦「樺型」10番艦「」)。丁型一等駆逐艦第5486号艦として横須賀海軍工廠で建造された。
目次

1 艦歴

2 歴代艦長

2.1 艤装員長

2.2 駆逐艦長


3 脚注

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

艦歴

就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将海軍兵学校41期)に編入。残工事を終えて[2]瀬戸内海に回航され、出撃準備を整えた。10月10日付で第三十一戦隊(江戸兵太郎少将・海兵40期)第四十三駆逐隊に編入される[3]。その一週間後の10月17日、アメリカ軍がフィリピン、レイテ湾のスルアン島(英語版)に上陸し、日本軍捷一号作戦を発動した。この作戦は小沢治三郎中将(海兵37期)が率いる機動部隊が囮となって第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)をひきつけ、その隙に栗田健男中将(海兵38期)率いる第二艦隊主力がレイテ湾に突入しアメリカ軍の上陸部隊を撃破するというものであった。10月20日夕刻、機動部隊は豊後水道を出撃。10月22日に軽巡洋艦大淀」から重油の洋上補給を行うも、予定の100トンに対して30トンしか補給できなかった[4]。機動部隊は10月23日に兵力を二分して2つの輪形陣を形成するが[5]、次第に燃料事情が艦の行動を圧迫する。翌10月24日、上空警戒にあたっていた空母瑞鶴」の零戦1機が着艦に失敗して海上に墜落し、「」とともに捜索を行う。捜索後、25日深夜には第四航空戦隊及び秋月型駆逐艦4隻からなる機動部隊前衛部隊に「杉」とともにに再合流、これに後続する事とした[6]。しかし同時刻に上空を飛行していた空母「インディペンデンス」所属の夜間哨戒機を発見し、同機の発した無線通信[7]が艦内電話に混線した事などもあり、川畑艦長はこの前衛部隊を米軍機動部隊であると誤認、「杉」とともに反転離脱する事となった[8][9]。その後、「燃料の余裕がない」との機関長の進言もあって「杉」とともに高雄に向かった[10]。機動部隊からは、後追いで「奄美大島ニ回航補給ノ上速ニ合同スベシ」と命令されたが[11]、ついに機動部隊との再合流はならなかった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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