桐野利秋
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桐野 利秋

生誕1839年1月16日
薩摩藩薩摩国鹿児島郡鹿児島近在吉野村実方[1]
死没 (1877-09-24) 1877年9月24日(38歳没)
日本鹿児島県鹿児島市
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1871年 - 1873年
最終階級 陸軍少将
除隊後西南戦争にて戦死
墓所南洲墓地
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桐野 利秋(きりの としあき、天保9年12月2日[2]1839年1月16日) - 明治10年(1877年9月24日)は、日本武士薩摩藩士)、陸軍軍人は利秋、通称は半次郎、桐野に復姓後は信作(晋作、新作)。初め中村 半次郎(なかむら はんじろう)と称した。

桐野利秋の書と伝えられる掛け軸など複数に、「鴨溟(瞑)」という雅号が記されている。
経歴
出自・城下士

天保9年(1838年)12月2日[2]鹿児島郡鹿児島近在吉野村実方(現在の鹿児島県鹿児島市吉野町[1])で城下士の中村与右衛門(桐野兼秋)の第三子として生まれる。5人兄姉弟妹で、上から兄・与左衛門邦秋、姉(夭折)、半次郎利秋、弟・山ノ内半左衛門種国(山ノ内家の養子となる。西南戦争に従軍)[3]、妹(島津斉彬に近侍していた伊東才蔵に嫁ぐ。伊東才蔵も西南戦争で戦死)の順[4]

別府晋介は母方の従弟。肝付兼行男爵とは姻戚関係にあり、兼行の実父・兼武は、利秋戦死後、残された家族を後見するとともに、伝記[5] を著した。

妻は帖佐小右衛門(鹿児島県鹿児島郡山之口馬場町士族)の次女、ヒサ。戸籍上、利秋には実子がなく、死後、明治11年にヒサが家督を相続し、明治18年に実弟の長男・山ノ内栄熊が養子入籍している[3]

家系は坂上苅田麻呂坂上田村麻呂の父)に起こると称し、安土桃山時代島津義久家老平田増宗を暗殺した押川強兵衛の道案内をした桐野九郎左衛門尉の末裔という[6]

10歳頃、広敷座の下僚であった父が徳之島に流罪に処せられ、家禄5石を召し上げられたのちは兄を助けていたが、18歳のときに兄の病没後は小作や開墾畑で家計を支えた。二才(にせ=若者。15歳頃から24歳頃)時代に石見半兵衛に決闘を申し込まれ、それを論難して以来、石見が属する上之園方限(ほうぎり)の郷中の士と親交を結んだ。因みに、この郷中には、寺田屋騒動の鎮撫使となった奈良原繁や抵抗して死んだ弟子丸龍助など、精忠組の士が多くいた。半次郎がもっとも親しくしていたのは、弟子丸龍助だったという[7]
幕末中村半次郎時代の写真。隣の女性は京都四条「村田煙管店」の娘で桐野の恋人であった村田さと

文久2年(1862年)3月、島津久光に随って上京、尹宮(朝彦親王)附きの守衛となった。直後の寺田屋騒動には知り合いが多くかかわっていたが、直接関係しなかった。しかし、鎮撫使となって郷中仲間を斬った奈良原繁とは、以降、距離をとった[8]。この年から翌年の薩英戦争ころまでは、寺田屋騒動にかかわりながら謹慎ですんだ三島通庸と行動をともにすることが多かったらしい。

やがて諸国の志士たちと広く交際し、討幕を唱えるようになり、同時に家老・小松清廉(帯刀)から特に愛されて引き立てられ、西郷隆盛など藩の重臣からも重用されるようになった[9]。他藩士や浪人との交際については、守衛となった尹宮家の家臣で、安政の大獄に連座し、討幕派に徹していた伊丹蔵人の影響も考えられる。

元治元年(1864年)4月16日、土佐の山本頼蔵の『洛陽日記』に「当日石清(中岡慎太郎の変名、石川清之助の略)、薩ノ肝付十郎、中村半二郎ニ逢テ問答ノヨシ。此両人ハ随分正義ノ趣ナリ」とある。

池田屋事件直後の6月14日、大久保利通宛の西郷隆盛書簡には、「中村半次郎は暴客(尊攘激派)の中へ入って、長州藩邸にも出入りしているので、長州側の事情はよくわかった」とあり、続けて「本人が長州国許へ踏み込みたいというので、小松帯刀と相談の上、脱藩したことにして探索させることにしました。本当に脱藩してしまうかもしれないが、帰ってきたら役にたつだろう」とある。しかし、5日後の西郷書簡には「中村半次郎を長州へ行かせたが、藩境でとめられ入国できなかった」とあって、当時の状況では、京都藩邸はともかく、長州本国へ薩摩藩士が入国することは不可能だったと知れる。このころから、長州寄りの考えを持ち、薩摩と長州の和解を策して動こうとしていたらしいことがうかがえるが、結局長州は暴発し、禁門の変となった。


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