桐山靖雄
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桐山 靖雄(きりやま せいゆう、1921年大正10年〉1月5日 - 2016年平成28年〉8月29日)は、仏教教団阿含宗開祖。母方の姓を名乗った桐山靖雄は法名で、本名は堤 真寿雄(つつみ ますお)。神奈川県横浜市神奈川区出身。

中国国立北京大学名誉教授、国立中山大学名誉教授、中国国立佛学院名誉教授、モンゴル国立大学学術名誉教授・名誉哲学博士、タイ国立タンマサート大学ジャーナリズム・マスコミュニケーション学名誉博士、サンフランシスコ大学終身名誉理事、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院 (SOAS) 名誉フェロー、スリランカ仏教シャム派名誉大僧正、チベット仏教ニンマ派仏教大学名誉学長・客員教授、中国国際気功研究センター会長、日本棋院名誉九段、関西棋院九段、中国棋院名誉副主席。
概要

1978年(昭和53年)4月8日に阿含宗を立宗、12月には『阿含密教いま』を世に問うた。立宗に至るまでの約24年間は凖胝観音を本尊とし、『観音経』を依経とする観音慈恵会という仏教教団を主宰していた。

作家志望であり、文藝春秋社の月刊誌『話』(1933年 - 1940年)に巻頭読み切りが掲載されたこともある。後に同社の社長となった千葉源蔵が原稿を買い受けたからである。保高徳蔵の同人誌『文藝首都』にも加わっていた。18歳の時に喀血肋膜炎をこじらせて結核となる。徴兵検査は丙種。結核の治療のためサナトリウムに入る。不運に嘆き天源淘宮術を学ぶなどして運命学を志す。白隠禅師の『施行歌』の一節「利口で貧乏するを見よ」に感化される。

戦後、精米機と製粉機を販売して一定の成功を収めるが、27歳の時、事業に失敗し父が建てた疎開工場の跡地で自殺を図った。首吊りのための縄をかける梁を探していたところ、『般若心経』『観音経』『延命十句観音経』『凖胝観音経』などの記された小経本を梁の上に発見。『凖胝観音経』にある「寂静にして心常に誦すれば一切諸々の大難能く是の人を侵すこと無し」という一句に救いを求め、凖胝観音を守り本尊とし、その布教のために観音慈恵会を発足。敷金3ヶ月分を家賃としての裏長屋からのスタートであった。藩の剣術指南番であった母方の祖父以来の悪業を絶つために法名として母方の桐山姓を名乗る。以後、自身のもつ「ガンの因縁」や「刑獄の因縁」といった悪因縁(悪い運命の星)を解脱するために因縁解脱法を探求し続け、6年間、『法華経』の勉強もしたが、「教え」以上の「法」を求めて密教門を叩いた。その難行とされる念力の護摩法を成就する[1]などして一時は「桐山密教」と謳われることもあったが反発も大きく、真言密教が様式化していることを知って密教界を去るも、ついには小乗の経典と卑しめられていた『阿含経』こそが、釈迦が直説した唯一の経典である以上に、七科三十七道品(三十七菩提分法)という成仏法(因縁解脱し仏陀になるための方法)の記されてある唯一の経典であることを見出した。釈迦仏教は出家仏教であるとの懸念もあったが、『雑阿含経』「一切事経」に説かれている「優婆塞(優婆夷)の十六法」が在家成仏の文証であることを見出して、56歳の時に阿含宗を立宗することを決意。七科三十七道品を現代的に「ブッダになるための七種のシステムと三十七種類のカリキュラム」として打ち出し、しかしそれをあくまでも後期大乗仏教である密教の様式でもって修行することを説いた[2]

55歳の時より金島忠(当時七段)に囲碁を教わる。七目からのスタートであった。横山国忠(当時八段)とテレビ対局、三目で勝つ。続けて、趙治勲本因坊とテレビ対局、122手、三目で勝つ。日本棋院より名誉九段位を授かる。

1991年(平成3年)4月、京都市山科区の花山に純日本式寺院である釈迦山大菩提寺を本山総本殿として建立成就。1993年(平成5年)、伊勢神宮第61回式年遷宮に際して遷宮伊勢の会と平成お伊勢参り実行委員会から招聘を受け奉祝の神仏両界大柴燈護摩供を開催。1994年(平成6年)には国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑において柴燈護摩形式による法要、翌1995年(平成5年)には近江神宮より招聘を受けて柴燈護摩形式による法要を行った。

中国に『法句経』が伝来して以来、1999年目に当たる1997年(平成9年)12月、国立中山大学から名誉教授として招聘を受け「阿含仏教」について講演、また翌年11月には、国立北京大学において阿含経を小乗経典とする天台教相判釈の問題について講演、国立佛学院より名誉教授号を贈られる。1999年(平成11年)12月、北京大学より名誉教授として招聘を受け、佛学院において阿含宗について講演。2000年(平成12年)6月、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院 (SOAS) にて講演、後に名誉フェローシップの栄誉を受ける。

1998年10月、台湾内政部などの招聘を受け台湾嘉義市にて理の柴燈護摩を修する。以後、インド、ニューヨーク、パリ、アウシュビッツ、イスラエルなどにおいて世界平和を祈る護摩法要を行った。また、パラオ諸島コロール島での法要を皮切りとして沖縄、ガダルカナル島ニューギニア島硫黄島サイパン島バシー海峡といった戦地、あるいはシベリア抑留地などにおいて戦没者の成仏供養のための柴燈護摩法要を開催。沖縄県護国神社においても柴燈護摩を奉修、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑においては「護国之御英霊」の旗を掲げて内護摩形式での法要を行った。以後、同墓苑においては毎年、新盆に万燈会が行われている。
経歴

1921年1月5日 横浜市神奈川区に弟二人、妹一人の四人兄弟の長男として生まれる
[3]

1923年 横浜から東京の本所に転居、関東大震災に遭う。


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