桃山文化
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狩野永徳『唐獅子図屏風』(宮内庁三の丸尚蔵館[注釈 1]

桃山文化(ももやまぶんか)または安土桃山文化(あづちももやまぶんか)は、織田信長豊臣秀吉によって天下統一事業が進められていた安土桃山時代日本の文化である[1]。この時代、戦乱の世の終結と天下統一の気運、新興大名豪商の出現、さかんな海外交渉などを背景とした、豪壮・華麗な文化が花ひらいた。

なお、「桃山文化」の呼称は、主として美術史の分野において多用される時期区分であり、その場合は徳川家康による江戸幕府開幕後の17世紀初頭も含めることが多い[1][注釈 2]。本項でも、この時期区分に準じ、16世紀後半から17世紀初めにかけての文化事象について、その概略を述べる。
概要伏見桃山城模擬天守エンゲルベルト・ケンペル方広寺大仏(京の大仏)のスケッチ[2]

天下布武」を掲げて日本の国内再統一事業を推し進めた織田信長、その後継者として統一を実現した豊臣秀吉の時期を、日本史上では、2人の居城の地名にちなんで「安土桃山時代」と称し、この時代の文化を一般に「桃山文化」と呼んでいる。「桃山」の名の由来となった京都市伏見区桃山丘陵は、秀吉がその晩年にきずいて本営を設けた伏見城の跡地で、廃城ののち元禄時代ごろまでにの木が植林され、安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになったという[1][3]

この時代、約100年におよんだ戦国時代の争乱をおさめて権力と富を集中させた統一政権のもと、そのひらかれた時代感覚が、雄大・壮麗にして豪華・絢爛、かつ溌剌として新鮮味にあふれた桃山文化を生み出した[4][5]。この文化には、戦国の世を戦い抜いて新たに地域の支配者となった新興の大名や、戦争貿易などを通じて大きな富をきずいた都市在住の豪商の気風や経済力が色濃く反映されている[4]秀吉着用と伝わる陣羽織(高台寺蔵)

また、古代中世の文化が神仏中心の傾向が強かったのに対し、この文化が人間中心主義的な性格を傾斜させたことも大きな特色となっている[4]。それまで長きにわたって各方面の文化を支えになってきた寺院勢力は、信長や秀吉らの政策によって弱められ、かつ、多くは没落していったため、文化の面においても仏教色が薄められ、世俗的・現実的かつ力感のある作品が数多く生み出されたのである[4][注釈 3]

統一政権の出現によって、文化の地域的な広がりや庶民への浸透もいっそう進み、京都大坂博多などの都市で活動する商工業者(町衆)が新たな文化のにない手として台頭した。この時代の文化は、中世以来の来世主義が後退し、現世享楽主義的な要素が強まったが、それには、このような町衆の台頭も背景のひとつとなっている[4][注釈 4]桃山時代の変わり兜(テキサス州ダラス、アン・アンド・ガブリエル・バービー=ミュラー博物館)

一方、ポルトガル人の来航を機にヨーロッパ文化との接触がはじまった。また、後期倭寇に代表されるように、日本人自身のかつてないほどの活発な海外進出の影響も相まって、この時代の文化は多彩なものとなり、異国趣味を加えて世界性をもつようになった[4]。新来の焼き物楽器を通じ、朝鮮文化琉球文化からも影響を受けた。

さらに、従来多岐にわたって文化をになってきた禅僧社会は大名らの文化顧問のような役割をにない、文化における公家社会の発言力も相応の経済的安定のもとに一定の高まりをみせるなど、一種の古典復興時代ともいうべき状況が現出した[4][注釈 5]。安土桃山時代は、武家文化・町人文化を基軸としながらも王朝文化や東山文化の系譜も継承してこれらを融合させ、国民文化の形成に大きな一歩を踏み出した時代ともいえるのであり、後続する江戸時代の文化につながる要素がきわめて大きい[4]

なお、尾藤正英(日本近世史・近世思想史)は、桃山文化の特色として、
城郭石垣のように、実用的・機能的であることが、かえって新たな美を生んでいる点

回遊式庭園の構造にみられるように、静的な鑑賞の対象ではなく、行動することによって現出される美を追求している点

前代からの会所の伝統が継承されており、個人的な空間ではなく、対話や社交儀礼など集団的な活動の場において美が営まれている点

の3点を指摘している[1]
桃山建築
城郭建築

桃山文化を象徴するのが城郭建築である[5]。城郭は本来的には軍事施設でありながら日本特有の建築様式のひとつともなっている[1]安土桃山文化村三重県伊勢市)に所在する安土城模擬天守現在の大坂城(天守閣と大手門)姫路城天守

この時代には、中世にきずかれた山城から次第に小高い丘の上や台地の縁辺に築く平山城平地に築く平城へと変遷し、多重に堀を配し堅牢な石垣を積み、重層構造の天守や櫓を建築する城郭に発展した[5]

「天守」の語が初めて文献に見えるのは、16世紀前半の畿内の戦乱を描いた軍記物細川両家記』における、16世紀初頭頃の摂津国伊丹城兵庫県伊丹市)の天守であるといわれている[6][注釈 6]。ただし、同時代にあっては「天守」の語は必ずしも一般的ではなく、江戸時代以前の文献資料ではむしろ「殿守」「殿主」の表記が多い[6]。従来の寺院建築にも仏塔山門など多層建築が存在したものの、これらは多かれ少なかれ大陸の様式の影響を受けたものであった[5]。それに対し、天守は全く日本人の創意から生まれた多層建築であったといえる[5]。また、高い天守を備えた「本丸」の外側に土塁や深い濠で囲まれた複数の郭(曲輪)を配して、「二の丸」「三の丸」「西の丸」「北の丸」などと称し、各郭を連ねる構造が採られるようになり[注釈 7]、さらに、城の内部には書院造をとり入れた居館や邸宅が設けられた。

野面積みの石垣もも、本来的には実用を旨とする防禦設備ではあったが、そこにも美が追求された[1][注釈 8]


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