桃太郎
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「桃太郎」のその他の用法については「桃太郎 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
打ち出の小槌をふるう桃太郎とお供の雉・犬・猿。―山東庵京伝(山東京伝)著『絵本宝七種』(蔦屋重三郎刊、1804年)より。

桃太郎(ももたろう)は、日本おとぎ話の一つ。の実から生まれた男子「桃太郎」が、お爺さんお婆さんから黍団子(きびだんご)をもらって、イヌサルキジを家来にし、鬼ヶ島までを退治しに行く物語。
内容から

桃太郎物語は、以下のような粗筋のものが「標準型」となっている。

桃から生まれた桃太郎は、老婆老爺に養われ、鬼ヶ島へ鬼退治に出征、道中遭遇するイヌ、サル、キジをきび団子を褒美に家来とし、鬼の財宝を持ち帰り、郷里に凱旋する[1]

この「標準型」とは明治から現在に至り教科書や絵本を通じて普及した「桃太郎」を指す[1]。作品によって場面ごとの違いはあるが、どの書籍でも桃太郎側の視点での勧善懲悪物語となっている[2]
異本

より古い系統の桃太郎説話は、この「標準型」とは異なるものである。とりわけ桃太郎の出生に関しては、桃から生まれたとする型(「果生型」)が今や一般的だが、これは19世紀初頭にはじめてみられるもので、それまでの草双紙では桃を食べたお爺さんお婆さんが若返り出産する型(「回春型」)が主流だった[3][4]
口承文学の異伝詳細は「#地域別の口承伝説」を参照

口承話では「果生型」が多いとされている[5][4]

その他、桃太郎の誕生の仕方については<赤い箱と白い箱が流れて来て、赤い箱を拾ったら赤ん坊が入っていた>など差異のあるものが多数伝わっている。赤い手箱と黒い手箱の場合や、箱の中に桃が入っている場合も、特に東北や北陸を中心に確認できる[6][7]

桃の割れる経緯についても「たんす」や「戸棚」や「臼」に入れておいた桃が自然に割れて男児が誕生するなど、民間での語り伝えは一様でなかった[8]

桃太郎の成長過程については、お爺さんとお婆さんの期待通り働き者に育ったとする場合もあるが、三年寝太郎のように力持ちで大きな体に育つが怠け者で寝てばかりいるとする話が主に四国・中国地方にみられる[9][7]
成り立ち桃太郎の人形
由来

特定の伝説に拠る物語の由来については諸説存在し、それぞれ論争のあるところである。桃太郎の起源を岡山とする説に関して、戦前の頃までその支持は、愛知県や香川県をゆかりとする説に大きく後れを取っていたが、1960年以降の岡山地域の促進運動によってその知名度が上がっている[10]。詳しくはゆかりの地を参照。
成立過程

物語としての成立年代は正確には分かっていないが、原型(口承文学)の発祥は室町時代末期から江戸時代初期頃とされる[7]

以後、江戸時代の草双紙の赤本のち豆本黄表紙版の『桃太郎』『桃太郎昔話』などの出版により広まった。現存最古の文献は赤小本『もゝ太郎』(享保8年/1723年刊行)とされるが[7]、かつて研究された原典にはこれより古い元禄以前の『桃太郎話』、元禄頃の『桃太郎昔語り』なども現存していた[11][12]
小池の分類法

多くの江戸期の原典を収集・筆写・比較研究した小池藤五郎は、最も古い諸本を「第一系統本」(『桃太郎昔語』等[注 1])とした。第一系統本では登場人物は「とう団子」をこしらえており、そこから派生した第二系統本(前述の享保刊行『もゝ太郎』等)になってこれが「日本一のきびだんご」に変じたと論じている。他の違いとして、爺が草刈りに行くか、柴刈りに行くかの相違を挙げている。これには曲亭馬琴の『燕石雑志』(文化8年/1811年)や瑞鳥園齋守こと賀茂規清(1798-1861)著の『雛迺宇計木(ひなのうけぎ)』などたくさんの資料が含まれる[13]

馬琴の『童蒙話赤本事始』では「桃太郎」は五大昔噺の冒頭を飾る[14]
回春型と果生型の成立順序

小池は慈雲院命鑑玖誉『太郎物語』(慶長5年/1600年)を原話にちかいものとみなしており[注 2][15]、そこにあるような夫婦が神仏頼みで子を得た話が最も古い原型で、次いで夫婦が若返り子をもうけた形(「回春型」)、最後に「桃から生まれた桃太郎」(「果生型」)が登場したと提唱した[16]

近年の研究では「回春型」が「果生型」より先んづるとする論に賛成する意見も[17]、同調するには慎重な意見もうかがえる[注 3][18]

島津久基は「桃から生まれた桃太郎」のほうが古い形態であると主張し、小池と島津の両者は激しく対立している[19]大正末頃には、気比神宮の建築装飾が果実型の物語の早期成立を示すものであると指摘されたが[20]、小池は桃太郎を模した作である証拠がなく、神宮で祀られる神の物語と伝える説が正しいと見た(§気比神宮に詳述)[21]

あくまで文献資料(草双紙)で見る限り、「桃から生まれた」話はより新しい系統の馬琴作『燕石雑志』(1811年)や『童話長篇』(1830年)等の作品にみられるとされる[注 4][22][5]。なお、式亭三馬作『赤本再興桃太郎』(文化9年/1812年)においては桃が2個流れてきて、ひとつを食した老夫婦は若返り、もうひとつから桃太郎が生まれ、この異本の特色となっている[23]

前述したように、こうした江戸期の文献(草双紙など)では、桃を食べ若返った夫婦が子作りをはたす「回春型」桃太郎が主流であった。たとえば赤本『桃太郎昔語』(刊行年不詳)には、若返りした媼が桃太郎を出産する挿絵がある[注 5][注 6][27]

明治時代が近づくにつれて桃から生まれた「果生型」桃太郎が、より多くみられるようになった[28][4][14]
気比神宮

福井県敦賀市、慶長19年(1614年)に再建された気比神宮本殿のには、割れた桃から出現する男の彫刻像があった(敦賀空襲により像は焼失)。四隅にそれぞれの装飾があり、童話の起源を物語るものと同社の略記に書かれており、他は浦島太郎因幡の白兎三猿だったとの回答を宮司(1956年時)から得ている。また、同社ではある時代から桃から生まれる嬰児の粘土細工の土産も売られていた[21]

これを検証した小池は、「果生型」の草双紙が流布した時代になれば、この像を見て桃から桃太郎が生まれた図案と解釈しえた、とそれなりの類似を認めつつも、像の制作時からこれが桃太郎だったと立証するにも何一つ由来・伝説・資料等がない」と懐疑的な立場に徹した[21]


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