桂文枝_(5代目)
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五代目 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}桂(かつら) 文枝(ぶんし)

「戎松日曜会」。後列右から六代目松鶴三代目桂米之助、五代目文枝、二代目小南陵。子供は小つる
本名長谷川 多持(はせがわ たもつ)
生年月日1930年4月12日
没年月日 (2005-03-12) 2005年3月12日(74歳没)
出生地大阪府大阪市北区天神橋
師匠四代目桂文枝
五代目笑福亭松鶴
梅屋勝之輔
名跡1. 二代目桂あやめ
(1947年 - 1949年)
2. 笑福亭鶴二
(1954年)
3. 三代目桂小文枝
(1954年 - 1992年)
4. 五代目桂文枝
(1992年 - 2005年)
出囃子廓丹前(くるわたんぜん)
活動期間1947年 - 1949年
1954年 - 2005年
活動内容上方落語
家族桂小きん(孫)
所属千土地興行(? - 1961年)
吉本興業(1961年 - 2005年)
公式サイト ⇒落語 五代目 桂文枝オフィシャルサイト
備考
上方落語協会4代目会長(1984年 - 1994年)
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五代目 桂 文枝(かつら ぶんし、1930年昭和5年〉4月12日 - 2005年平成17年〉3月12日)は、上方噺家上方落語家)。

六代目笑福亭松鶴三代目桂米朝三代目桂春団治と並び、昭和の「上方落語の四天王」と言われ、衰退していた上方落語界の復興を支えた。
来歴 結三柏は、文枝一門の定紋である。

大阪市北区天神橋筋六丁目に生まれる。父は宮大工だったが、大阪に移住してからは職を転々とし造兵廠勤務の経験もあった。のち一家は大正区三軒家に移る。

1941年4月に、叔父の住む釜山(当時は日本の施政下)に移るも、1943年4月に大阪に戻り、大阪市立天王寺商業学校に入学する。1945年3月には、神奈川県藤沢市海軍電測学校に入学し、当地で敗戦を迎える。天王寺商業には復学せず、進駐軍の施設などでアルバイト生活を送る。

1947年春、叔父の斡旋で大阪市交通局に就職。当初は@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}大阪市営地下鉄淀屋橋仮工場[要出典]に勤務。その後大阪市電天王寺車庫の電機工場に配属され、運搬部員だった矢倉悦夫(のちの3代目桂米之助)の口ききで、趣味の踊りを習うため、日本舞踊坂東流の名取でもあった4代目桂文枝に入門する。

その後しばらくは市職員としての籍を置きながら、師匠が出演する寄席に通って弟子修行を積み、2代目桂あやめ(「阿や免」から当代より改称)の高座名をもらう。1947年5月2日、大阪文化会館(のちの大阪市立精華小学校1995年3月31日廃校)の位置にあった)で初舞台(演目は「小倉船」)。1948年に交通局を退職し、落語家専業となる。同年3月、戎橋松竹に結集していた上方落語家は、5代目笑福亭松鶴と確執を生じた丹波家九里丸2代目桂春団治らを誘って浪花新生三友派を旗揚げし、師匠の4代目文枝もこれに同調した[1]。このときあやめは私淑していた松鶴について勉強したいと申し出て文枝と松鶴が相談した結果、あやめは浪花新生三友派には加わらずに戎橋松竹に残ることになった[1]。分裂騒動は、あやめも加わっていた若手落語家グループ「さえずり会」の介入により約1年で収束(関西演芸協会として合同)したが[2]、戎橋松竹の番組編成に復帰した丹波家九里丸は、松鶴の死去(1950年)ののち、自分に同調しなかったあやめを「意趣返し」として戎橋松竹から締め出した[3]。あやめは、歌舞伎の囃子方(鳴物師)への転向を余儀なくされ、寄席囃子三味線方の滝野光子の紹介で鳴物の梅屋勝之輔に入門。梅屋多三郎を名乗る。だが、1951年に肺結核が発覚し、約2年間の入院生活を送る( - 1953年2月)。快癒後に落語会に出るに当たり、「桂あやめ」では立場上問題があることから、寄席囃子方となっていた中田つるじが自らが噺家だった時の高座名である笑福亭鶴二を使うように計らい、高座に上った[4]。この名前で「二、三回」落語会に出た後、中田つるじが4代目文枝にあやめの復帰を持ちかけて承諾され、1954年3月に3代目桂小文枝に改名して本格的に復帰した[4]

1957年上方落語協会結成時には幹事の一人となる[5]。この頃、小文枝のほか、4代目笑福亭枝鶴(後の6代目笑福亭松鶴)・3代目桂米朝・2代目桂福團治(のちの3代目桂春団治)・3代目林家染丸を加えた5人を「上方落語五人男」と呼ぶようになり、やがて染丸を除いて「上方落語の四天王」という呼び方がなされるようになった[6]

1961年、この年始まったNHKの「上方落語の会」で「天王寺詣り」「たちきれ線香」など、のちの十八番のネタおろしをおこなう。自著『あんけら荘夜話』ではこの年に千土地興行から吉本興業に移籍したとされる。ただし本人も記憶が薄いようで、同書の表現も「1961?2年頃」と曖昧なものとなっている。4代目桂文紅の『上方落語史』では千日劇場の1963年10月中席に千土地の芸人として出演していたとの記述があり、2代目露の五郎兵衛も自著『上方落語のはなし』の中で1964年に千土地興行に所属していた落語家の一人として小文枝を挙げていた。日沢伸哉は自らのブログ「らくごくら Web編」において吉本興業の資料(非公表の住所録)に同社入社日が「1965年5月1日」と明記されていたと真相を究明した。

1967年4月22日、初の独演会「小文枝がらくた寄席」を肥後橋の大阪YMCAで開催。

1971年3月29日立川談志との二人会「西の小文枝・東の談志」を東京・虎ノ門の発明会館で開催。在京の小文枝ファンの努力で実現した落語会で、これがきっかけとなって「東京小文枝の会」が誕生する。この会が支援する形で7月27日には東京で初の独演会「夏姿・小文枝一夜」が開催された。3か月後の10月29日には、早くも東京で二度目の独演会を開く。

1984年1月、3代目桂春団治の後を受け、上方落語協会第4代会長に就任。1994年まで務める。就任して最初の仕事が、交通事故で急逝した4代目林家小染の葬儀委員長だった[7]

1984年10月9日、文楽吉田簑助新内の新内枝幸太夫とのジョイント公演を大阪・御堂会館で行う。演目は『天神山』。

1986年NHK連続テレビ小説都の風』に出演。

1992年8月3日、5代目桂文枝を襲名。


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