七代目 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}桂(かつら) 才賀(さいが)
Katsura Saiga the 7th
七代目桂才賀定紋「鬼ツタ」
本名谷(たに) 富夫(とみお)
生年月日 (1950-07-12) 1950年7月12日(73歳)
出身地 日本・東京都大田区
師匠九代目桂文治
三代目古今亭志ん朝
弟子三代目桂やまととんぼ・まさみ
名跡1. 桂文太
(1972年 - 1978年)
2. 古今亭朝次
(1978年 - 1985年)
3. 七代目桂才賀
(1985年 - )
出囃子野毛山
活動期間1972年 -
活動内容古典落語
所属落語協会
公式サイト七代目 桂才賀 公式ページ
七代目 桂 才賀(かつら さいが、1950年(昭和25年)7月12日 - )は、東京都大田区出身の落語家。落語協会所属。本名?谷 富夫。出囃子は「野毛山」、紋は「鬼蔦」。 1969年3月、自由ヶ丘学園高校卒業後九代目桂文治に入門を申し込んだところ、「入門したければ自衛隊に3年入隊なさい」と言われ海上自衛隊へ入隊(舞鶴101期)し、3年の任期(一般隊員としての1任期)を満了まで勤め上げた後、再度門を叩いた。当時、文治は断り文句のつもりでこの発言をしており、完全に忘れていたという[1]。1972年3月、九代目桂文治に入門。前座名は兄弟子・桂文七の前座名でもある「文太」を名乗る。 1977年3月に橘家六蔵、入船亭扇好、林家時蔵と共に二ツ目昇進。1978年5月に師匠・文治が死去したため、三代目古今亭志ん朝門下となり「古今亭朝次」と改名。師匠が高座名を命名することがほとんどの落語界では珍しく、この名は自ら考えたものである。1980年11月2日 - 10月5日に急死した四代目三遊亭小圓遊の後任として『笑点』の若手大喜利から大喜利メンバーとして参入。1982年に映画『鬼龍院花子の生涯』に出演。 1985年9月に古今亭志ん輔、四代目桂三木助、林家らぶ平、柳家三寿、林家かん平、入船亭扇遊、林家時蔵、柳家小ゑん、春風亭正朝と共に真打昇進し、七代目桂才賀襲名。昇進披露を『笑点』番組内で執り行う。 1988年3月27日、『笑点』を降板。法務省久里浜少年院長より少年院篤志面接委員の委嘱を受け刑務所、少年院の慰問活動を本格化する[2]。同年10月には国立劇場金賞受賞。 2008年8月、刑務所、少年院の25年にわたる慰問活動を綴った『刑務所通いはやめられねぇ』を出版した。 同じく刑務所、少年院の慰問活動を行い、法務省特別矯正監も務めている杉良太郎とは、一緒に仕事を行う機会が多い[3][4]。2015年に制度が開始された法務省矯正支援官(任期2年)には、2015年から委嘱を受けている[1][5][6]。 古今亭朝次時代の1980年に『笑点』(日本テレビ)の大喜利メンバーとなり、才賀襲名後の1988年まで出演していた。 『笑点』降板後、テレビ東京『生放送!おもしろ寄席 少年院などへの慰問活動の際の共通の話題づくりのためにと自動車やバイクのレースに興味を持ち、国内B級、国内A級のライセンス、公式審判員の資格も取得。富士スピードウェイでの「富士フレッシュマンレース」(のち「富士チャンピオンレース」)の審判員を務めたこともある。 時折、歌謡曲に合わせた「篠原流踊り」を、自身が主任の高座で披露していた。 『笑点』若手大喜利での活躍が認められて、1980年11月2日に大喜利メンバーに抜擢される。
経歴
芸歴
1972年7月?九代目桂文治に入門、前座名「文太」。
1977年3月?二ツ目昇進。
1978年5月?九代目桂文治他界の為、古今亭志ん朝門下へ移籍。「朝次」と改名。
1985年9月?真打昇進、七代目桂才賀を襲名。
弟子
三代目桂やまと
色物
とんぼ・まさみ(漫才)
人物
「浪曲子守唄」背中に背負っている子役を演じたのは立川左談次である。落語立川流は定席寄席に出られなかったが、左談次は「高座を踏んでいない」という理屈で出演していた。花王名人劇場でも披露している。
「函館の女」横になっていた段ボール箱を着流し姿の才賀が縦にして「箱縦(はこだて)」。歌詞に合わせた当てぶりの後、才賀が指名手配中の男だとバレて、刑事に逮捕されるオチ。
笑点