桂 小金治(かつら こきんじ)は落語家の名前。二代目の死後は空き名跡となっている。
初代桂小金治 - 後?二代目桂枝太郎
二代目桂小金治 - 本項にて詳述
二代目 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}桂(かつら) 小金治(こきんじ)
『さしゑ』創刊号(1955年)
本名田辺 幹男
生年月日 (1926-10-06) 1926年10月6日
没年月日 (2014-11-03) 2014年11月3日(88歳没)
出生地 日本・東京府豊多摩郡杉並町
(現:東京都杉並区)
死没地 日本・神奈川県川崎市麻生区
国籍 日本
血液型A型
職業落語家
俳優
司会者
タレント
ジャンル古典落語
映画
テレビドラマ
ワイドショー
バラエティ番組
活動期間1947年 - 2014年
配偶者あり
著名な家族山岸快(孫)
主な作品
『破れ傘刀舟悪人狩り』(1974年)
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二代目 桂(かつら) 小金治(こきんじ)
生年月日1926年10月6日
没年月日 (2014-11-03) 2014年11月3日(88歳没)
出身地 日本・東京都杉並区
死没地 日本・神奈川県川崎市
師匠二代目桂小文治
名跡1. 桂小竹
二代目桂 小金治(かつら こきんじ、1926年〈大正15年〉10月6日 - 2014年〈平成26年〉11月3日)は、東京府豊多摩郡杉並町(現:東京都杉並区)出身の落語家、俳優、タレント、司会者。本名?田辺 幹男。
桂小金治事務所所属。帝京商業学校(現:帝京大学中学校高等学校)卒業[1]。元俳優の山岸快は孫である。 次代の名人候補として将来を嘱望されたが、川島雄三の要請で映画俳優に転身。昭和中期から映画やテレビドラマ、バラエティ番組に数多く出演し、ことにワイドショーの名司会者として名を馳せた。 平成以降は放送メディアに登場する機会は少なくなっていたが、全国各地で講演活動を展開しており、落語を口演する機会もあった。江戸前の歯切れの良い滑舌で、高座では古き良き時代の江戸落語を聴かせていた。 芸名の通りもともと落語家であったが、その後長らく俳優・司会者・タレントとしての活動が続き、落語家としては開店休業状態だったが、1980年代初頭、2000年代から2011年までは落語家としても活動していた(後述する理由からフリーの落語家として活動)。 陸軍特別幹部候補生だったが、終戦。金もなく、着物を着てできる職業ということで落語家を選んだ。 落語家になるために新宿末廣亭の楽屋に通い、誰にも入門できないまま、前座(のちの5代目春風亭柳昇)の下でさらに下働きをしていた。落語家は前座の弟子を食べさせる義務があるが、食糧事情が悪すぎるため、前座一人分の食糧を捻出できる落語家がほとんどいなかったのである。しかしよく働く小金治の姿に、当時の日本芸術協会副会長・2代目桂小文治が目をつけ、小文治のほうから入門をもちかけた。小文治はもともと上方噺家であり、常に関西弁のみをしゃべるため(そのため、普通の入門志願者から敬遠され、どこかで挫折した、訳ありの落語家を後から自分の門下にすることが多かった)、入門を躊躇したが、副会長の権勢は傍目にもすごいように見え、入門を決意した。小文治よりもらった初名(前座名)は桂 小竹。 小文治は「噺はよそ行って習うて来い。わしからは芸人としての生き方だけ覚えていったらええのや」と言い、小金治にいっさい稽古をつけなかった。小金治は生粋の江戸っ子、それも魚屋の倅である。もし稽古をつけていたらせっかくの江戸らしさが失われていただろう。 二つ目になった後、小金治のファンでもある松竹大船撮影所の川島雄三監督が小金治の出演していた東京・神田の寄席『立花』を訪れ、そこで直々に川島に誘われて抜擢される。[17]そのとき川島雄三は師匠の小文治に「良い噺家を一人ダメにします。お許しください」と手をついたという。[18]一本目の映画『こんな私じゃなかったに』に出演。拘束時間1日、ギャラ5千円だった。映画は好評で、川島により起用され続け、単発契約で何本か出演した。 それらも好評で、川島の所属する松竹は小金治と専属契約を結びたいと考え、小金治に対して映画出演一本あたりのギャラを提示した。そのとき松竹は片手の指5本を開いて示した。もともと映画一本のギャラが5千円という約束だったので、小金治は当初これを「5千円」と解釈し自分の一月の稼ぎより多いと考えていたら、実は「5万円」という意味だったので驚喜した。ちなみにこのときの条件は「年間6本の出演義務」であった(よって年収30万円)。念のため、師匠の小文治に「契約したほうがいいか断るべきか」を聞きに行くと、即座に「アホ! 落語やってたら、そんな金、一生かかってもようもらえんで…」と返されたという。結果、松竹との専属契約は無事締結された。
概要
年譜
1926年 - 東京府豊多摩郡杉並町(現:東京都杉並区)の魚屋の息子として生まれる。
1942年 - 帝京商業学校に入学。しかし1943年、太平洋戦争のため繰り上げ卒業となり、立川の飛行機工場の食堂に勤務となる[1]。
1945年 - 特別幹部候補生として陸軍少年戦車兵学校へ入校。在校中に終戦。
1947年 - 日本芸術協会副会長・2代目桂小文治に入門し「小竹」を名乗る。
1949年 - 二つ目昇進、「小金治」を名乗る。
1952年 - 映画『こんな私じゃなかったに』(松竹大船、監督:川島雄三)に出演し、映画デビュー。松竹大船と専属契約を結び売れっ子となる。
1955年 - テレビに進出。
1959年 - 東京映画(東宝系の映画会社。現在の東映とは無関係)に移籍。
1961年 - 日活に移籍。石原裕次郎、高橋英樹と多く共演。
1966年 - ワイドショー『アフタヌーンショー』(NETテレビ、現:テレビ朝日)で司会を担当(1973年8月3日放送まで。小金治司会時代のタイトルは『桂小金治アフタヌーンショー』だった)。この番組で「怒りの小金治」の異名をとる。
1975年 - バラエティ番組『それは秘密です!!』(日本テレビ、毎週火曜日19時30分?20時00分)で司会を担当。同番組の人気コーナーであった「ご対面コーナー」で、感動のあまりもらい泣きする姿は視聴者の共感を誘い、前述とは打って変わって「泣きの小金治」と呼ばれた。
2006年 - テレビドラマ『セーラー服と機関銃』(TBS)に出演(第1回のみ。「目高組」の先代組長役)。
2011年 - 高座からの引退を宣言。
2014年 - 11月3日、肺炎のために神奈川県川崎市麻生区の病院にて死去した[2]。88歳没。戒名は「慈笑院幹譽演道居士」。
人物
子供は長女、長男、次男の3人居る[3]。
保守的な政治思想の持ち主として有名であり、「天皇陛下は日本のお父さんだ。天皇陛下が嫌いな奴は日本から出て行け!」と日本テレビのワイドショーで発言したことがある[4]。
趣味は草笛やハーモニカ[5]。
「一念発起は誰でもする。努力までならみんなする。そこから一歩抜き出るためには、努力の上に辛抱という棒を立てろ。この棒に花が咲く」という名言がある。もともとこれは、草笛の練習をしていた当時10歳の小金治が、いくらやっても鳴らないので練習3日目にして草笛をあきらめようとした時、父親からかけられた言葉である[6]。
交友関係
自由民主党衆議院議員だった渡辺美智雄と親しかった。
多くの映画で共演した佐田啓二[7]、笠智衆[8]、石原裕次郎とも親交があり、裕次郎は小金治の自宅を「料亭桂」と呼んで度々飲みに来るほどで[9]、『アフタヌーンショー』司会のオファーがあった時に「落語家として真打でもなく、映画俳優でもなく中途半端なのに…やっていいのか」と小金治が迷っていたところ「男の仕事じゃないですか。やったらいいでしょう」と後押しもしてくれたという[10][11]。
また、同じく共演の多かった高橋英樹とは、高橋の結婚式の司会を小金治が務め、高橋も小金治を「ゴルフの師匠」と慕うほどの関係だった[12]。
『さわやかな男』(関西テレビ)で共演した柴俊夫とは、「YK会」と言うゴルフコンペでいつも一緒になるなどの仲だった[13]。
藤井フミヤとは、元々小金治の次男とフミヤが同い年で友人同士であるということから始まった縁で、フミヤも小金治の自宅で度々食事などの世話になり、小金治のことを「東京の親父」と呼んでいるほど[14][12]。小金治自身もファンで、フミヤの曲では「『TRUE LOVE』が好き」と述べ、得意の草笛で『TRUE LOVE』をフミヤの前で演奏したこともある[15][12]。なお、小金治の告別式ではフミヤと柴が弔辞を読んだ。
この他、プロゴルファーの杉原輝雄とも親交があった[16]。
落語家
入門時
松竹入社
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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