四代 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}桂(かつら) 小文枝(こぶんし)
今宮戎神社宝恵駕行列途次、戎橋南詰戎舞台にて
(2019年1月10日、当時きん枝。)
本名立入(たちいり) 勉三(べんぞう)
生年月日 (1951-01-05) 1951年1月5日(73歳)
出生地 日本・大阪府大阪市城東区蒲生町
師匠3代目桂小文枝
(後の5代目桂文枝)
弟子桂きん太郎
桂ちきん
桂小きん
四代目 桂 小文枝(よんだいめ かつら こぶんし、1951年1月5日 - )は、日本の落語家。本名は立入(たちいり) 勉三(べんぞう)。所属事務所は吉本興業。上方落語協会会員(相談役)。上方落語を聴く会会長(副会長は桂小枝)。大阪市城東区出身。吉本の仕事で初舞台は月亭八方らと共に共演した。現在は大阪府豊中市在住。2019年2月までの高座名は桂(かつら)きん枝(し)(一時期別の高座名を名乗ったこともある。詳細は後述)。
お笑いコンビ・バンビーノの藤田裕樹は、甥(姉の子)にあたる。 成城工業高校卒業後にエレベーター会社に勤めるが退職し、1969年7月、3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)に入門。一門では兄弟子6代桂文枝に次ぐ2番弟子となる[1]。芸名は苗字の立入から引っ掛けて「なんや?。立入禁止みたいやな。」と3代目小文枝が「きん枝」と命名。まもなく月亭八方らとともに大須演芸場で初舞台。往年の人気番組毎日放送「ヤングおー!おー!」では弟弟子の桂文珍、月亭八方、4代目林家小染と共に「ザ・パンダ」として活躍し、全国に名が知れる。要領の悪いところから3代目小文枝に「うっかり」と呼ばれ、最もかわいがられた愛弟子として知られる。同期に間寛平らがいる。 私生活でトラブルを起こしたこともある。1979年7月にはLSD疑惑、1981年11月には無免許運転(この事件を機に当時レギュラー出演していた『プロポーズ大作戦』(朝日放送)も降板している)、1983年8月の32歳のときには18歳未満の女子と夜間一緒に歩いていたところを警察官に見つかり任意同行・書類送検されるという事件(俗称「横浜ニャンニャン事件」。今でいう未成年交際疑惑)を起し、3代目小文枝から謹慎を言い渡され[2]、所属の吉本興業からも無期限謹慎処分を受けた。 5代目文枝は「謹慎」と言ったのがマスコミに「破門」と書かれた、と著書に記している[2]。ただ、単なる「謹慎」だけではいかんという理由で休業、一般企業で勤務することになった[2]。きん枝に目をかけていた山科の経営者の企業が勤務先であったという[3]。当時、FRIDAYに千里丘駅から山科駅を電車で通勤する姿が掲載された。 1985年6月、「桂勝枝」の名前で吉本に復帰する[3]。しかしこの当時は島之内寄席に出る程度で、サラリーマン生活を続けていた[3]。その折に6代目笑福亭松鶴が勝枝を伴って3代目小文枝の自宅を訪れ、「多持(たもつ)、もう戻したれ」と持ちかけ、3代目小文枝はすでに「タイミングの問題だけ」と考えていた[3]。松鶴は不慮の交通事故で死亡した4代目小染の通夜(1984年1月31日)の際に参列したきん枝に声をかけていたという[3]。1986年7月、吉本と3代目小文枝の許可を得て「きん枝」に復名した(小文枝は著書で「戻り襲名」と記している[3])。 生前の5代目文枝に「文吾」を襲名したいと申し出たことがある。 2002年には大阪市立大学経済学部2部に社会人入試で合格し、入学。また、2004年3月前年の阪神タイガース優勝時の公約により24歳年下の看護師と結婚。翌年第1子誕生。2001年に離婚した前妻の間に1男1女がいるが、一般人のため、公表されていない。 主に関西のテレビ・ラジオなどで活動し、天満天神繁昌亭では「きん枝のがっぷり寄席」を定期的に開催していた。 2010年4月23日に「芸人でも政治家ができると思った」として民主党から第22回参議院議員通常選挙に立候補することを発表した[4]。
来歴・人物結三柏は、桂文枝一門の定紋である。
華やかなデビュー
トラブルと謹慎
芸能界復帰・二度の改名
復帰後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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