桂宮淑子内親王
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桂宮淑子内親王
続柄
仁孝天皇第三皇女

称号敏宮(ときのみや)
身位一品内親王准三宮(准后)
敬称桂准后宮
出生文政12年1月19日1829年2月22日
山城国
死去明治14年(1881年10月3日
京都府
埋葬明治14年(1881年10月20日
京都府京都市東山区泉涌寺
父親仁孝天皇(第120代天皇
母親甘露寺妍子
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桂宮 淑子内親王(かつらのみや すみこないしんのう、文政12年1月19日1829年2月22日) - 明治14年(1881年10月3日)は、仁孝天皇の第三皇女。生母は按察使典侍・甘露寺妍子。幼名は敏宮(ときのみや)。孝明天皇は異母弟、徳川家茂の正室・和宮親子内親王は異母妹にあたる。目次

1 来歴

2 人物

3 墓

4 参考文献

5 関連項目

来歴

天保11年(1840年)1月28日、閑院宮愛仁親王と婚約。天保13年(1842年)9月15日、結婚を前に内親王宣下を被るが、その2日後に愛仁は薨去してしまう。

異母弟の節仁親王が継承した桂宮は、節仁が天保7年(1836年)3月5日に亡くなったため当主不在となっていた。淑子は文久2年(1863年)12月23日に第12代として桂宮を継承した。女宮が世襲親王家を継承した唯一の例である。慶応2年(1866年)4月22日には准三宮(准后)一品に叙されて以後桂准后宮(かつら じゅごうのみや)と呼ばれ、同じ准三宮だった孝明天皇女御・九条夙子(英照皇太后)よりも宮中席次は上席だった。

明治14年(1881年)53歳で死去。同年10月20日京都府京都市上京区相国寺で葬儀が執り行われ、同市東山区泉涌寺内に葬られた。淑子の薨去をもって桂宮家は断絶した。久邇宮朝彦親王が政府要人に働きかけて三男・世志麿(久邇宮邦彦王)に桂宮を継がせようとしたが、成功しなかった。
人物

大変人見知りの激しい性格で、御所の庭を散歩するときにも輿に乗り簾の間からかいま見るという行動をとっていた。物怖じしない性格の妹・和宮とは全く対照的だったという。和宮とは一時期同居していたことがある。

現在二条城本丸御殿といわれているのが、淑子の住まいであった桂宮邸である。を愛好していた彼女の好みにより、座敷の一部は能舞台として使えるように改造されており、その遺構が現存する。
淑子内親王墓

墓は京都府京都市東山区今熊野南谷町の泉涌寺内にある。淑子内親王墓には朝彦親王墓と守脩親王墓が隣接している。
参考文献

久保貴子「桂宮家と女性当主」
新人物往来社『歴史読本』2006年11月号 No.807 p226 - p229

関連項目

桂古流










内親王一覧(飛鳥時代?江戸時代)
大宝律令施行(701年)以後で、内親王と公称した人物とする。
飛鳥時代

泉内親王

御名部内親王

水主内親王

田形内親王

託基内親王

但馬内親王

泊瀬部内親王

氷高内親王

吉備内親王

奈良時代

安倍内親王

阿倍内親王

井上内親王

衣縫内親王

坂合部内親王

酒人内親王

難波内親王

能登内親王

不破内親王

平安時代

滋野内親王

ワ子内親王

慧子内親王

朝原内親王

惇子内親王

包子内親王

識子内親王

孟子内親王

敦子内親王

安勅内親王

大井内親王

善原内親王

紀内親王

甘南美内親王

晏子内親王

伊都内親王

氏子内親王

有智子内親王

英子内親王

婉子内親王

延子内親王

大原内親王

大宅内親王

聡子内親王 (後三条天皇皇女)

佳子内親王 (後三条天皇皇女)

嘉子内親王

雅子内親王

官子内親王

儀子内親王

喜子内親王

休子内親王

恭子内親王

勤子内親王

都子内親王

修子内親王

普子内親王

均子内親王

覲子内親王

君子内親王

柔子内親王

依子内親王

孚子内親王

誨子内親王

季子内親王

成子内親王

綏子内親王

長子内親王

儼子内親王

池上内親王

慶子内親王


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