根津神社
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根津神社


拝殿(重要文化財)
所在地 日本
東京都文京区根津一丁目28番9号[1]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度43分12.77秒 東経139度45分38.50秒 / 北緯35.7202139度 東経139.7606944度 / 35.7202139; 139.7606944 (根津神社)座標: 北緯35度43分12.77秒 東経139度45分38.50秒 / 北緯35.7202139度 東経139.7606944度 / 35.7202139; 139.7606944 (根津神社)
主祭神須佐之男命
大山咋神
誉田別命
大国主命
菅原道真公
社格等旧府社
准勅祭社
創建不詳
本殿の様式権現造
別名根津権現[1]
札所等東京十社
例祭9月21日[1]
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表参道鳥居
社号票の揮毫は平田東助内務大臣

根津神社(ねづじんじゃ)は、東京都文京区根津にある神社旧社格府社で、元准勅祭社(東京十社)つつじの名所として有名。
概要

日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社に数えられている。

現在の社殿は宝永3年(1706年)、甲府藩主の徳川綱豊(後の江戸幕府第6代将軍徳川家宣)が献納した屋敷地に造営されたものである。権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされている[2]。社殿7棟が国の重要文化財に指定されている[2]

境内はツツジの名所として知られる。また根津神社の近くには、森?外が文京区に移住してから最初に住み、後に夏目漱石が住んだこともある千朶山房(せんださんぼう)や、?外が後半生に暮らした観潮楼(かんちょうろう)が近かったこともあり、これらの文豪に因んだ旧跡も残されている[3]。特に?外は根津神社の氏子で、小説『青年』に「根津権現」として登場するなど縁があり、2021年に閉館した旅館「水月ホテル?外荘」(台東区池之端)で使用されていた?外の旧邸も根津神社に移築されることになった[3]
社名

根津神社は、江戸時代には山王神道の権現社であり、当時は「根津権現」とも称された。この呼称は明治初期の神仏分離の際に「権現」の称が一時期禁止されたために衰退したが、地元では現在も使われる場合がある。単に「権現様」とも称される[注釈 1]。文学作品では「根津権現」として出てくることが多い。
祭神
主祭神


須佐之男命(すさのおのみこと)

大山咋神(おおやまくいのかみ)

誉田別命(ほんだわけのみこと)

神仏習合下での垂迹神と本地は以下の通り。

垂迹神(旧称)本地
根津三所権現素盞烏尊十一面観音菩薩
山王大権現薬師如来
八幡大菩薩阿弥陀如来

相殿


大国主神 (おおくにぬしのかみ)

菅原道真公 (すがわらのみちざねこう)

歴史

『根津志』によれば、「抑根津大権現往古勧請の年歴を知らず。駒込惣鎮守ニて千駄木村に鎮座し給ふ。神躰は素盞烏尊本地十一面観世音菩薩、 相殿二社山王大権現本地薬師如来、八幡宮本地阿弥陀如来、是を根津三所大権現と申奉る。中頃太田道灌入道持資の再興ともいふ。」と記され、1900年ほど前に日本武尊千駄木に創祀したとされ、文明年間(1469年-1486年)には太田道灌により社殿が造られたと伝わる。

江戸時代になると、天台宗の医王山正運寺昌泉院が神宮寺(別当)を務め[4]、根津大権現の社は山王神道の権現社となった。主祭神の素盞烏尊は十一面観音菩薩を本地仏として祀られ、相殿に祀られた山王大権現(本地仏は薬師如来)や八幡神(本地仏は阿弥陀如来)と合わせて根津三所権現とも呼ばれた。

万治年間(1658年-1661年)に同所が太田氏の屋敷地となったため東方に移り、のちさらに団子坂上(現文京区立本郷図書館周辺、元根津)に遷座した[5]。また、『江戸名所記』(寛文2年/1662年刊)には、「根津権現は不寝(ねず)権現であり、諸神の寝ずの番衆であろう」と記されている。

根津神社が現在の姿を整えたのは、江戸幕府第5代将軍の徳川綱吉の治下にあった宝永3年(1706年)である。当時嗣子のなかった綱吉は、甥で甲府藩主の綱豊(綱吉の兄・綱重の子)を世嗣に定めたが、根津にあった甲府徳川家の江戸屋敷で出生した綱豊は根津権現を産土神としていたことから、綱豊が江戸城へ移る際に藩邸跡を根津権現へ献納し、社殿を造営したのである[5][6]。工事には諸大名が動員され、社殿造営は天下普請と言われた。そのため、綱豊から改名した家宣とその実子の家継が第6代・第7代将軍としてそれぞれ在職した時期、根津権現は徳川将軍家の崇敬を集めた。特に、正徳4年(1714年9月21日に実施された例祭では、江戸城内に神輿が入ることを許されたため、天下祭の一つに挙げられた[6]。しかし、家継没後に紀州徳川家出身の徳川吉宗が第8代将軍に就任すると、享保の改革の一環で、例祭は公営から民営に切り換えられ、地味なものになった。

その後の明治維新では、神仏分離・廃仏毀釈によって、山王神道に基づく根津権現の祭祀は廃され、当時の国家神道に基づき、本殿にはスサノオ、大山咋神、八幡神を、相殿には大国主と菅原道真を祀る形式へ強制的に改組された。

また、帝国大学の移転にともない、江戸時代から門前に形成されていた根津遊廓明治21年(1888年)6月末に廃され、江東区の洲崎遊廓へと移転した。
境内
社殿

社殿は江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉による造営で、本殿・幣殿・拝殿が1つにまとめられた権現造の形式である。

本殿(重要文化財)

拝殿(重要文化財)

唐門と透塀(ともに重要文化財)

透塀(重要文化財)

神楽殿

楼門(重要文化財)

狛犬

摂末社

乙女稲荷神社 - 祭神:
倉稲魂命
根津神社の遷座時、境内西側の傾斜面(つつじが岡)の中腹に洞を穿つ形で祀られた。


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