根本松枝
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平野 謙(ひらの けん、男性、1907年明治40年)10月30日 - 1978年昭和53年)4月3日)は、日本の文芸評論家明治大学教授。本名平野朗(あきら)。左翼運動からの転向を経て、「近代文学」創刊に参加。文学における政治主義を批判し、独自の私小説理論や文学史研究などで創見を示した。戦後文学を代表する評論家である。長年続いた文芸時評でも知られる。著書に『島崎藤村』(1947年)、『芸術と実生活』(1949年)、『昭和文学史』(1963年)など。
来歴・人物

父・履道、母・きよの長男として京都市上京区で生まれ、5歳のときに父の故郷である岐阜県稲葉郡那加村に転居する。父・柏蔭平野履道は法蔵寺住職であるが、文藝評論を書いていたこともある。小林秀雄は再従兄。正確には、小林秀雄の母方の祖母の城谷やす(旧姓千葉)と平野謙の母方の祖父の千葉實が兄妹の関係にある。

1918年8月14日、10歳のときに得度剃髪、法名「秀亮」を授けられたが、旧制中学時代に僧侶への道を拒否するようになった[1]岐阜中学校から名古屋の旧制第八高等学校に進学し、本多秋五藤枝静男と知り合う。1930年、名古屋の八高から東京帝国大学文学部社会学科に進学して上京し、在学中、1932年、プロレタリア科学研究所にはいり、プロレタリア文化運動に関係する。しかし、間もなく運動は壊滅したので、その時代はあまり業績はない。1931年、日本通信労働組合書記局で半非合法の活動をしていた当時、小畑達夫(のちに共産党スパイ査問事件の当事者となる)を同志として本郷の下宿に泊めたところ、恋人をとられる結果になったこともある[2][3]。恋人から「自分はあなたと一緒にいると今後進歩しない、思想的に成長しないと思う、もっとしっかりした人に指導されて運動のなかにすすんでいきたい」[4]と拒絶されて傷ついた平野は、晩年「私は小畑達夫に対してある個人的な怨念をいだいてきた」と述べている[3][5]

1932年日本通信を辞め、『プロレタリア文学』『大衆の友』『働く婦人』を出していたコップ出版所に入所を希望したが叶わず、本多秋五の推薦でプロレタリア科学研究所に入る[6]

1933年に東京帝大文学部社会学科中退。1934年に結婚。1937年、東京帝大文学部美学科に再入学し、1940年に32歳で卒業。父の履道は祖父の履信による本堂再建のための3万5000円(1918年から1920年頃の金額)の負債に苦しみつつ10人もの子供を育て上げた人で決して裕福ではなかったが、謙に仕送りを続け、それは1941年、謙が33歳で就職するまで続いた[7]

戦時中は「身は売っても芸は売らぬ」をひそかな志としていたが、1941年1月から1943年6月まで情報局に月給100円の常勤嘱託として勤務し[8]、演説の原稿などの起草をした。1943年5月、中央公論社に移り、嘱託として勤務[9]。また文学報国会評論随筆部会の幹事を務め、文化学院に講師として勤めた[9]

戦後、本多秋五埴谷雄高荒正人佐々木基一小田切秀雄山室静と雑誌『近代文学』を創刊し、新しい文学をめざした。この時期は、蔵原惟人小林秀雄とを模範とするというところに彼らの特徴が現れていた。平野は、その中で積極的に文学状況に対して発言し、「小林多喜二火野葦平とを表裏一体としてとらえる」ことを課題とした。この宣言から、中野重治宮本顕治らといわゆる〈政治と文学〉論争がおき、戦前のプロレタリア文学の再検討の機運をつくった。

1950年から1955年まで相模女子大学教授。1957年明治大学文学部専任講師、62年教授となり、死去まで務めた。主著は『島崎藤村』(『近代文学』1946年1月-2月。1947年8月刊)と『藝術と実生活』だが、前者は藤村の私生活を暴き立てたとして亀井勝一郎の批判を受けた。後者については、中村光夫が、私小説田山花袋の「蒲団」に始まるとしたのに対し、1913年(大正2年)の近松秋江「疑惑」と木村荘太「牽引」を私小説の濫觴とする説を出しており、一時期学界の定説化していた。

純文学論争は、1960年、松本清張水上勉らの中間小説が評論家の賞賛を受けていた時期に、平野が「純文学というのは歴史的概念だ」と書いたことに端を発したものだが、実はそれ以前から、大岡昇平による松本清張批判などの前哨戦があった。優れた娯楽小説は純文学に勝るという考え方は、現在もしばしば論争の種になるくらいで、決着がついていない。

1957年田宮虎彦と亡妻との往復書簡が『愛のかたみ』の題名で刊行されベストセラーになると、『群像1957年10月号に「誰かが言わねばならぬ──『愛のかたみ』批判」を発表し、同書を「特殊な、不自然な、変態的な書物」と批判。平野はさらに田宮の小説にも筆鋒を向け、『絵本』『菊坂』を「二流の小説作品」、『足摺岬』を「三流の文学作品」とこき下ろした。平野はまた「妻の死について書かずにいられぬ田宮虎彦の気持ちのなかには妻からの解放感がかくされていたはずである」と邪推し、「田宮は『愛のかたみ』の印税で女と遊んでいた」と小田切秀雄に吹聴した[10]


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