根本健
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1952年

根本 健(ねもと けん、1948年 - )は、元GPライダー、雑誌『ライダースクラブ』(竢o版社)元編集長である[1]。少年時代は鉄道や飛行機を趣味としていたがロードレース世界選手権(WGP)を目指すことになる。本人曰く「小学生から鉄道に飛行機と、オタク街道まっしぐらだったのがナゼかバイクの道へ」[2]。父は漫画家の根本進で、朝日新聞の夕刊に4コマ漫画『クリちゃん』を連載していた[3]
目次

1 来歴

2 戦績

3 脚注

4 参考文献

5 外部リンク

来歴
1948年
東京都生。慶應義塾大学文学部中退[1]
幼少期
父の原稿を受け取りに来る新聞社のバイク「陸王」が来るのを心待ちにしていた[4]
小学生時代
鉄道好き[2]。高学年で航空機ファンとなり、羽田空港横田基地などへ航空機を見に行く[5]
中学時代
中学1年時の夏休みの自由研究は『翼のアスペクト比と航続距離の関係』。中学2年では『翼断面と層流』。中学3年では『流体によって生じる衝撃波を再現する研究』を行ない、担任教師を呆れさせる[5]
航空機と平行して鉄道模型も趣味としていた。HOゲージの完成品の収集から始まり、ディテールにまで凝った模型を自作するようになる。常連となっていた模型店から依頼を受け、特注品製作のアルバイトを始める。蒸気機関車のモーターを改造したり、全動輪にサスペンションを組み込んだりして、裕福な顧客からの注文が殺到した。このアルバイトは中学生の間続けた。ヒット作はアメリカの鉄道模型雑誌に掲載されたトランジスター制御方式のパワーパックの自作であった。また、蒸気機関車のヘッドライトにはスケール感を重視して、電球は車体内に設置し、プラモデルのランナーを加工してヘッドライトまで光を導いて点灯させるような工夫もしていた。鉄道模型製作のアルバイト収入により少年時代は小遣いに困らなかった[6]
高校時代
航空機の趣味は高校生になっても続いており、父の知り合いが勤務する自衛隊の航研まで通うためにバイクを購入することにし、バイク選びのためにバイク雑誌を購読する。当時発行されていたバイク雑誌は『オートバイ』と『モーターサイクリスト』の2誌であった。根本はこれらの雑誌に掲載されていたWGPの記事に夢中になる。その頃はちょうど日本のバイクメーカーがWGPに挑戦し始めていた時期で、ホンダがチャンピオンシップを獲得し、日本メーカー同士の熾烈な戦いが繰り広げられていた。根本はちょうどこの頃、航空機への興味が薄れ始めていた。当時、「戦争がないと航空機産業は発展しない……」と言われていたことに矛盾を感じたことが航空機から興味を失う要因の一つとなった[7]
そして、バイクの免許を取得してヤマハYG-1(2ストローク、75cc)を購入する。通学していた高校の規則ではバイク通学は禁止であったが、課外授業で酒匂川へ行く日に、他の生徒はバスに乗車して目的地に向ったが、根本はYG-1を走らせてそのバスに手を振りながら追い抜き、1週間の停学処分となる。その後、当時あった船橋サーキットに四輪車のレースを観戦に行ったのだが、そこでたまたまWGPマシンのエキシビションレースを見ることになり、これが切っ掛けでGPマシンへ興味を抱くことになり、マン島TTを走ってみたい、と憧れるようになる。それからは根本は、ヤマハYG-1(75cc)→ホンダCB125(125cc)→ヤマハYM-1(305cc)へと乗り換えていく[8]
根本はチームに入会する。チームではメンバーが購入資金を出し合い、市販ロードレーサーヤマハTD-1C(250cc)を2台入手する。TD-1Cの試乗は富士スピードウェイで行なったが、当時は30度バンクが使用されていた。根本は自分自身のロードレーサーを入手するためにヤマハYM-1を売却し、ブリヂストンGB-1を中古で購入する。当時はブリヂストンもロードレーサーを製造していた[9]
カワサキのディーラーチーム時代
根本が所属していたチームはロードレースの素人の集まりだったので、本格的にロードレースをするためにチームを移ることにする。全日本モーターサイクルクラブ連盟(MCFAJ)を介して、カワサキのディーラーを紹介してもらう。当時のカワサキのバイクは川崎重工業に統合される前の川崎航空機が製造していた。根本はこのディーラーチームの一員となり、カワサキのテストにも参加するようになるが、テストの日が高校の期末試験と重なってもバイクのテストを優先させたために高校を留年することになり、高校を卒業までに6年間もかかっている。カワサキのディーラーチームではバイクの基本構造やセッティングの仕方などを学び、2ヶ月後にはディーラーチームのメカニックがチューニングしたエンジンを搭載したバイクを駆ってノービス50ccクラスで2位となる[10]
カワサキ直系サテライトチーム時代
その後、ディーラーチームの紹介によりカワサキのワークスライダー安良岡健が率いるカワサキ直系のアラオカレーシングチームに移籍し、カワサキのワークスチームが富士スピードウェイを借り切ってテストする日に根本も参加する。根本がチームに入ってしばらくすると安良岡がカワサキのメカニックに根本を推薦し、根本も試作部品のテスト走行に参加できるようになる。ある日、富士スピードウェイをワークス仕様のA1-R(250cc)で走行中に、30度バンクの出口付近の路面が荒れた部分で後輪が空転後にロックし、根本はバイクから投げ出されてしまい重傷を負う。この事故から1年後にやっと退院でき、レース活動を再開する[11]
1970年全日本ロードレース選手権ジュニアクラス
根本は全日本ロードレース選手権ジュニアクラスのチャンピオン獲得を目指して本腰を入れる。最優秀選手賞を獲得して世界一周のチケットを手に入れることが目標である。日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)は、当時、最優秀選手賞のライダーに世界一周を賞品として用意していた。これは、日本でWGPが開催されなくなったため、ライダーを世界に派遣して世界のロードレース界との関係を保つことを目的としていた。結局、1970年シーズンは糟野雅治(ヤマハ)がチャンピオンとなり、根本(カワサキ)はランキング2位であった[12]
1971年全日本ロードレース選手権90ccクラスで負傷、ロードレースから引退
根本は筑波サーキットにおいてカワサキ90SSで走行中に最終コーナーでエンジンが焼き付いてしまい転倒し、鎖骨を複雑骨折してしまう。この事故を切っ掛けに大学を中退し、チームからも退会してロードレースから引退する[13]
その後、父親の紹介でラジオ局で働き始める。半年後、鈴鹿サーキットに取材へ行くようにディレクターから指示が出る。取材対象は「白バイ大会」であったが、偶然にもその週末は全日本ロードレース選手権の最終戦でもあった。根本は決勝レースを観戦することにした。この日は糟野雅治と顔を合わせた。糟野もこの日はレースに出場しないで観戦していた。糟野は1970年に最優秀選手賞を獲得したので、この年は世界一周旅行をしていて、帰国したところであった。糟野はヨーロッパに滞在し、フィル・リードの自宅に居候しながらWGPを観戦したりしていた。根本は糟野からヨーロッパの様子を聞き、プライベートライダーがレースだけでも生活していけることを知る。当時の全日本ロードレース選手権は優勝しても賞金が出なかったので、プライベートライダーはレースだけでは生活できなかった。また、日本人のワークスライダーは実質的には開発ライダーなので、マシンテストとしてWGPに参戦することはできてもフル参戦することは難しかった[14]
1972年、ロードレースに復帰
根本と糟野雅治はヤマハの市販ロードレーサーTR3(350cc)を購入し、日本初のプライベートチーム「フライングドルフィン」を結成する。プライベートチームのため、スポンサーを探してレース活動資金を調達しなければならず、それには苦労したが、南海部品から支援を得ることができた。そして、根本自身もバイク関係の仕事で生計を立てるべく各バイク雑誌に営業活動を行い、カワサキ時代の知名度が幸いして、数々のバイク雑誌から試乗記の仕事を得ることができた[15]
1972年、賞金レースを企画
根本と糟野雅治はプライベートチームとしてレース活動をしていくために必要と考えられることを実行に移す。その一つが賞金レースである。当時はMFJのレースもMCFAJのレースも賞金が出なかったためである。ワークスライダーはメーカーからの契約金により生活を成り立たせていたが、プライベートライダーはレース以外の仕事で生活を維持していた。当時、富士スピードウェイでは「グランチャン」と呼ばれる四輪車のレースに人気があった。そこで、根本らはMCFAJ事務局のスタッフと一緒に「グランチャン」のプロモーターと交渉し、前座レースとしてトップライダーのみのバイクレースを行うことに成功した。このレースは好評で、鈴鹿サーキットでも「2&4」としてバイクと四輪車のレースが同じ日に開催されるようになる。この企画は各地のサーキットでも受け入れられ、今は閉鎖されたむつ湾サーキットではスターティングマネーも支払われた。こうして上位入賞のライダーには数十万円単位で賞金が出るようになった。


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