根井三郎
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ねい さぶろう
根井 三郎
生誕
1902年明治35年)3月18日
宮崎県宮崎郡廣瀬村福島
(現在の宮崎県宮崎市佐土原町
死没1992年平成4年)3月31日
(満90歳没)
国籍 日本
別名ミスター・ネイ
(ユダヤ人難民からの呼ばれ方)
出身校日露協会学校修了
職業外務省職員(戦前)
法務官僚(戦後)
著名な実績通称「命のビザ」を利用して逃れてきたユダヤ難民に対して、日本行き(福井県敦賀)の船の乗船許可&「命のビザ(根井ビザ)」を発行。
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根井 三郎(ねい さぶろう、1902年明治35年〉3月18日 - 1992年平成4年〉3月31日)は、日本外交官法務官僚杉原千畝が発行した通称「命のビザ」を利用してウラジオストクへ逃れてきたユダヤ難民に対して、在ウラジオストク総領事代理として外務省の訓令に抗議し日本行の船に乗船許可を与えた人物として知られる[1][2]。2017年以降に、彼自身も命のビザ(根井ビザ)を発行していたことも判明した[3]
経歴
前史

1902年明治35年)、宮崎県宮崎郡廣瀬村福島(現在の宮崎市佐土原町)出身[4]1908年明治41年)、広瀬尋常高等小学校入学、同校尋常科(現在の宮崎市立広瀬小学校)を卒業する[5]1916年(大正5年)、長崎県立中学玖島学館に入学。1921年大正10年)、長崎県立大村中学校(旧制)(中学玖島学館より改名。現在の長崎県立大村高等学校)を卒業後、外務省留学生として外務省へ入省する[2]1924年(大正13年)3月に日露協会学校を修了する[6]。なお、根井は日露協会学校において杉原千畝の二年後輩にあたる[4]
外交官としての経歴

1925年(大正14年)4月より、在ハルピン日本帝國領事館から外交官としてのキャリアを始め、同年11月に在ウラジオストク日本帝國総領事館に異動する[7]1929年(昭和4年)3月 に本省通商局第二課へ移り、同年8月には再び在ウラジオストク日本帝國総領事館で勤務する[7]

1930年(昭和5年)9月には本省会計課へ異動し、1932年(昭和7年)1月より欧米局第二課での勤務となる[7]。同年9月には三度目の在ウラジオストク日本帝國総領事館勤務となる[7]1933年(昭和12年)12月にはソビエト連邦内へ勤務となる[7]1935年(昭和10年)4月には大臣官房電信課での勤務となり、1936年(昭和11年)7月よりイラン国内にて勤務する[7]1940年(昭和15年)4月に本省欧亜局第一課にて勤務する[7]
「命のビザ」への対応

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきたユダヤ人難民たちは、日本への通過を求めてリトアニアの在カウナス領事館の領事代理だった杉原千畝にビザ発給を要求し、杉原は外務省の訓令に反して1940年7月から9月にかけて約2千通以上の日本通過ビザを発給した。ユダヤ人難民の大半はシベリア鉄道で移動し、日本への航路があったソ連のウラジオストクへ向かった。

根井は1940年(昭和15年)8月に本省より在ウラジオストク日本総領事館勤務を命じられ、12月には総領事代理(副領事)に任じられ翌年1月8日にウラジオストク着任したばかりであった[7]。杉原が発行した日本通過ビザを持ったユダヤ人難民に対して、根井は2月8日より本省と電文にて協議を開始した[1]。外務省は日独伊三国軍事同盟を結んでいたドイツに配慮し、杉原が発給したビザを再検閲するよう根井に命じた。だが、根井は3月30日付けの電報で「国際的信用から考えて面白からず」と異を唱え、ビザを持つユダヤ人難民を福井県にある敦賀港行きの船に乗せ、ビザを持たない者には根井の独断で渡航証明書や通過ビザを発給した[1]。1941年3月に根井と外務省が交わした電報は外交史料館に残っている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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