栗橋宿(くりはしじゅく)は、江戸時代に整備され、栄えていた宿場町である。日光街道・奥州街道の内江戸・日本橋から数えて7番目、すなわち武蔵国のうち第7の宿である(現在の埼玉県域では6番目)。当宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿を合わせて一宿とする記述も有る。
所在地は、江戸期には東海道武蔵国葛飾郡栗橋宿。現在の埼玉県久喜市栗橋北2丁目、栗橋中央2丁目、栗橋東3丁目、栗橋東5丁目がこの地域にあたる。 慶長年間に、地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、上河辺新田(現栗橋地区)が開墾された。その後、元和2年(1616年)に日光・奥州街道筋が付け替えられ、その地に利根川渡河の宿駅として栗橋宿が成立した。栗橋宿は利根川対岸の中田宿と合宿の形態をとっていた。荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋の業務は半月毎の交代制であった。栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介は、本陣を代々務めた。 栗橋は「日本六十余州国々切絵図」によると幸手、杉戸、吉川を含み、下総国の国絵図にて描かれている[2]。この地域に残される区域の国郡名によると、寛永11年(1634年)10月までは下総国猿島郡または葛飾郡と記されるが、寛永14年(1637年)7月には武蔵国葛飾郡に編入されていた[3]。 栗橋宿の規模は、天保14年(1843年)の記録によると人口1,741人、本陣1、脇本陣2、旅籠25軒、家数404軒、であったという[4]。 栗橋河岸は、元禄3年(1690年)に、利根川右岸、利根川と権現堂川との分流点である分岐部近隣に成立した。 栗橋宿から中田宿につながる奥州街道・日光街道の間には利根川が交差している。しかし、軍事上の目的から架橋されなかったため、代わりに渡船場が置かれ房川渡しと呼ばれていた。また、利根川沿いには、房川渡中田関所が設置された[5]。関所は、当初中田側に設置されていたが、寛永元年(1624年)に栗橋に移設した。正式名称は「房川渡中田御関所」であるが、通称「栗橋関所」とされた[6]。 首都圏氾濫区域堤防強化対策事業により堤防が拡張されることとなり、遺跡発掘が行われた。栗橋地区の場合、江戸時代から宿場町として栄え、歴史的建造物も存在し既成市街地であることから、宿場の街並みが道路の両側に引き続き残り、八坂神社や防災公園、桜等を植栽した避難場所となる平場が堤防上に移築・整備される地元住民の要望も取り入れた首都圏氾濫区域堤防強化対策の改良案で堤防を整備している[7] 栗橋河岸の成立は、『徳川禁令考』によると、元禄3年(1690年)との記述がある[8]。日光・奥州街道(陸羽街道)と利根川が交差しており、栗橋河岸は栗橋宿の東方、利根川右岸、利根川と権現堂川との分流点である分岐部近隣にあり、対岸に中田宿が位置していた。栗橋河岸の呼称は、明和・安永 - 文化年間にかけて栗橋宿河岸であったが、寛政以降には栗橋河岸となった[9]。 天保14年(1843年)の記録によると、栗橋河岸の舟数は公儀渡し舟2艘、茶舟5艘、馬舟2艘があった[4]。
概要
栗橋河岸「河岸」も参照