栗林公園
Ritsurin Garden
飛来峰からの眺望
分類都市公園(歴史公園)、日本庭園
所在地 日本香川県高松市栗林町
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度19分49.2秒 東経134度2分39.85秒 / 北緯34.330333度 東経134.0444028度 / 34.330333; 134.0444028
栗林公園(りつりんこうえん)は、香川県高松市に所在し、国の特別名勝に指定された回遊式大名庭園(日本庭園)である[1][2]。県立の都市公園(歴史公園)として運営されている[3]。 紫雲山[注釈 1]の東麓に所在し、紫雲山を背景に[注釈 2]、6つの池と[注釈 3]13の築山を配し、400年近い歴史を有する大名庭園である。すぐれた地割と石組を有し、木石の雅趣に富んでいるとされている。面積は約75haで文化財庭園では、国内最大の広さである[2][4][5][6]。 文化財庭園としてのカエデ・ツツジ・約1000本の手入れマツなどに加え、都市公園としてのウメ・サクラ・ハス・ショウブ・ハギなどが創出する四季折々の景観は、「一歩一景」とされている[2][6][7]。 本園は、南庭と北庭で構成される。南庭は江戸時代初期の大名庭園の姿を今日に伝える。北庭は檜御殿が建ち鴨場であったが、大正時代初期に近代庭園のスタイルを取り入れた宮内省の市川之雄の設計で改修の後、一部を改変して今日に至る。本園の前身の「栗林荘」は[注釈 4]、高松藩主の松平家11代の国もとの下屋敷として、228年間使用された。1745年(延享2年)第5代藩主頼恭が「名所60景」を撰名し[注釈 5]、作庭が完成したとされる。「名所60景」は、南庭に46景と北庭に4景の、50景が現存する[6][7]。 南庭の「小普陀」の石組は、室町時代の作庭とされている。江戸時代初期に讃岐国を治めた生駒氏の分限帳で、「栗林」の呼称が確認できる[注釈 6]。大名庭園としての本格的な整備は、生駒氏の改易後の、高松藩初代藩主の松平頼重の入部以降とされている。第3代藩主頼豊は御殿や茶屋などを充実させた。第5代藩主頼恭は薬園を設ける等、作庭に努めた。平賀源内は初代薬園頭として2年間勤める[4][5][6]。第2代藩主頼常は泉の池の浚渫を行い、近辺数か村の灌漑用水に使用した[8]。 園内には3種類の気象庁の標本木がある。北梅林のウメ・讃岐民芸館前のサクラ(ソメイヨシノ)・楓岸のカエデである。高松地方気象台の「開花・満開・紅葉」の宣言は、これらの標本木に基づく[6][9]。 栗林公園には様々な大きな池があり、庭園部分の約2割を占めていて、これらは互いにつながっている。水源は紫雲山の地下水も多少あるが、おもに公園の南東隅にある「吹上」(ふきあげ)と呼ばれる場所で湧き出ていて、短く浅い小川となって池にそそいでいる。高松市のおもな河川である香東川は現在紫雲山の西を流れているが、往時この川の本流は紫雲山の東の栗林公園のある場所から中央通り(国道11号・国道32号)を通り、玉藻公園(高松城址)の脇で瀬戸内海へそそいでいて、江戸時代の改築で本流を現在のように変えたあとも、伏流水が栗林公園で湧き出ている。現在は近くにある二つの井戸の水も使われているとも、往時はこの水源の小川で「曲水の宴」を行なったともいわれる。[10][11]
概要庭園と紫雲山小普陀の石組栗林公園
様々な池と水源
沿革
1869年(明治2年)- 版籍奉還により「栗林荘」が官有となる[12] 。
1875年(明治8年)3月16日 - 県立公園(太政官布告)として「栗林公園」が公開される[12] 。
1903年(明治36年) - 皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)星斗館に滞在(10月10日?14日)[13]。
1914年(大正3年)3月21日 - 皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)、淳宮(秩父宮雍仁親王)、光宮(高松宮宣仁親王)来園[13]。
1922年(大正11年)3月6日 - 名勝(内務省)に指定される[12]。
1922年(大正11年)5月 - エドワード王太子(後のエドワード8世)が北庭に松をお手植え[14]。
1930年(昭和5年)1月 - 栗林公園動物園が開園。2002年9月、閉園。2004年3月、施設撤去を完了する[12]。
1931年(昭和6年)5月25日 - 風致地区(内務省)になる[12]。
1945年(昭和20年)7月 - 高松空襲により紫明亭、枕流亭、北門詰所等を焼失する[7]。
1945年(昭和20年)10月 - 園外の「旧日暮亭」を移築し、「新日暮亭」の名称とする(後に、旧日暮亭に改名する)[12]。
1949年(昭和24年)3月20日?5月20日 - 県・市共催の高松観光大博覧会(第2会場)が開催される[12]。
1949年(昭和24年)11月 - 高松美術館(高松市立美術館)が開館。