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やノートページでの議論にご協力ください。栗山 英樹野球日本代表監督時代
(2023年3月10日 東京ドーム)
基本情報
国籍 日本
出身地東京都小平市
生年月日 (1961-04-26) 1961年4月26日(63歳)
身長
体重174 cm
72 kg
選手情報
投球・打席右投両打
ポジション外野手
プロ入り1983年 ドラフト外
初出場1984年10月8日
最終出場1990年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
創価高等学校
東京学芸大学
ヤクルトスワローズ (1984 - 1990)
監督歴
北海道日本ハムファイターズ (2012 - 2021)
日本代表 (2021 - 2023)
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栗山 英樹
生誕 (1961-04-26) 1961年4月26日(63歳)
日本・東京都小平市
教育創価高等学校
東京学芸大学
職業プロ野球選手
プロ野球監督
野球解説者
野球評論家
スポーツジャーナリスト
大学教授
活動期間1984年 -
代表経歴ヤクルトスワローズ選手(1984年 - 1990年)
テレビ朝日野球解説者(1991年 - 1993年、2001年 - 2011年)
TBSテレビ野球解説者(1993年 - 2000年)
TBSラジオ野球解説者(1993年 - 2011年)
スポーツニッポン専属野球評論家(1991年 - 2011年)
東京学芸大学講師
白?大学教授(2008年 - )
北海道日本ハムファイターズ監督(2012年 - 2021年)
日本代表監督(2021年 - 2023年)
北海学園特任教授(2022年 - )
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栗山 英樹(くりやま ひでき、1961年〈昭和36年〉4月26日 - )は、東京都小平市[1]出身の野球指導者、元プロ野球選手(外野手)。右投両打。
2012年から北海道日本ハムファイターズの監督を球団最長となる10年間務め、退任後も同球団の育成・編成補佐に携わっている。選手引退から監督就任までの間は野球解説者やスポーツジャーナリストのほか、白?大学教授としても活動していた。日本のプロ野球監督で国立大学出身・大学教授の経歴を持つ人物はともに栗山が史上初めてで、現在は学校法人北海学園特任教授(北海学園大学・北海商科大学・北海高等学校・北海学園札幌高等学校の講演を担当)を務める[2]。アインホールディングス取締役。 野球好きの兄に誘われ、小学校時代に軟式野球を始める。中学校では一度野球を離れ、バレーボール部のセッターとして活躍。この時に会得したフライングレシーブが、後の外野守備での華麗なダイビングキャッチを生み出すことになる[3]。中学3年時には、地元小平市のポニーリーグチームに所属し、投手として日米大会に出場、大会MVPを獲得する。大会後、小平市内の創価高校野球部の熱心なスカウトに心を動かされ、ともに甲子園を目指すことを決意する。 創価高校では1年時からベンチ入りし、3年時には主将兼エースとしてチームを牽引したが、春の全東京大会では早稲田実業に0-3で敗れて関東大会出場を逃し、優勝候補として期待された夏の西東京大会でも4回戦で敗退し、甲子園への夢は断たれた。高校一年と二年の年末に1週間、広島商業で合同練習を行う[4]。「当時学んだ広商野球は今も僕のベースになっている」と話している[4]。その後は教員を目指して東京学芸大学教育学部に合格する。 東京学芸大学では硬式野球部に入部し、投手、内野手として活躍する。東京新大学野球連盟では投手として1年春、2年春のシーズンをリーグ制覇するも、スライダーを投じた際に右肘を故障してからは投手としての限界を感じ、野手に転向することになる。東京新大学野球連盟での通算成績は、投手として25勝8敗、打者として打率.389(リーグ史上3位)という並外れた成績を残した。在学中に小・中・高の教員免許を取得し卒業後は教員を目指していたが、野球への夢が再燃して、野球部の合宿で訪ねた静岡県掛川市で出会った野球解説者の佐々木信也の紹介でプロテストを受けさせてもらえるようになったこともあり、進路を野球一本に絞る。教師になれる目前でその目標を捨てるようなことで両親からは大反対されたが、説得を続けた末[5]、4年時には社会人・朝日生命へ内定[6]、その後プロチームの入団テストを受け、その結果ヤクルトスワローズへのドラフト外入団が決まった。担当スカウトは片岡宏雄[7]。 1年目の1984年に遊撃手として一軍デビューを果たしたが、プロのあまりのレベルの高さに強い衝撃を受け、野球を辞めることばかり考えていたという。 さらに2年目の1985年からは、平衡感覚が狂う三半規管の難病であるメニエール病に苦しむようになり、試合中に突然目まいや立ちくらみを覚えるようになる。最初にメニエール病の症状に襲われたのは、5月の二軍公式戦であった。この試合の最終回に突然地面が揺れ始め、ボールが2つにも3つにも見えるようになり、あと1人で試合終了というところでベンチへ交代を願い出ている。しかし、一・二軍間のボーダーラインにいた栗山は、その後は目まいが起こっても首脳陣には隠して頭をクラクラさせながらも試合に出続けたという[3]。同年には外野手として一軍でのスタメン出場を果たし、ジュニアオールスターゲームに出場。オフには意図的に三半規管を麻痺させる治療を受け、一時的に症状を抑え込んでいる。 このオフには若松勉[注 1]が、栗山の俊足を生かすためにスイッチヒッターに挑戦させてはどうかと土橋正幸監督に提案。栗山はもともと右打ちだったが[8]、若松の指導の下、左打ちの猛練習に取り組んでスイッチへと転向した。この猛練習が功を奏し、翌1986年の5月末に杉浦享が負傷して外野のポジションが空くと、6月からは1番右翼手としてレギュラーに定着し、規定打席未満ながら打率.301を記録した。 しかし、シーズン終盤には再び試合中に目まいや立ちくらみを覚えるようになり、オフには治療に専念するため長期入院を余儀なくされた。栗山は、いつ症状が再発するか分からない将来への不安の中で入院生活を送っていたが、たまたま顔見知りになった同じ入院先の子供たちが自分よりもはるかに深刻な病を持っていることを知らされてからは、自分の甘さを恥じて「また発症してもそれは仕方がない。一期一会の精神で野球に全力を尽くそう」と、前向きな気持ちになれたという[9]。 結局、翌1987年のユマキャンプには参加できず、開幕にこそ間に合ったが、調整不足のため打撃不振に陥って関根潤三新監督や安藤統男ヘッドコーチの期待に応えられずレギュラーを外された。復活を期する栗山は、再び若松の指導の下で猛練習を重ねて調子を取り戻し、1988年のユマキャンプで左足の肉離れを起こしてしまったため、この年の開幕には間に合わなかったものの、6月に復帰すると1番・中堅手に定着してヒットを量産。出遅れが響いて規定打席には33打席足りなかったが、打率.331を記録した。 1989年には、開幕から中堅手のレギュラーに定着。当初は1番を打っていたが、ルーキーの笘篠賢治が1番に固定されると2番に回り、37犠打を記録した。シーズン序盤は攻守ともに絶好調で打率も3割以上を維持していたが、6月中旬にメニエール病の症状が再発すると打率が急降下した。そのため8月以降は先発を外れることもあり、スタメンの場合でも7番・8番に打順を下げての出場が多くなった。結局この年は打率.255に終わったものの、初めて規定打席に到達し、守備範囲の広さを評価されてゴールデングラブ賞を獲得した。なお、斎藤雅樹がプロ野球新記録となる11試合連続完投勝利を達成した同年7月15日の対巨人戦では、9回表二死で打席に立ち初球を一直に打ち取られ最後の打者となった。 しかし、メニエール病の症状はシーズン終了後もなかなか好転せず、満足な練習ができないまま次のシーズンに臨まざるを得なくなり、翌1990年に野村克也が監督に就任すると、当時無名だった柳田浩一にレギュラーの座を奪われた。それでも、途中出場となった4月7日の開幕戦(対巨人)では大森剛の抜ければサヨナラという左中間の強烈なライナーをダイビングキャッチでアウトにする活躍を見せたが、メニエール病の症状に加えて古傷の右肘の故障も再発したため極度の不振にあえぎ、レギュラーの座を奪い返すことはできなかった。 栗山は、特別な才能に恵まれているわけではない自分にとっては、120%の努力をすることがプロの世界で生きていくための最低条件であり、それができなくなってしまった以上はプロ生活を続けられないと考え、この年限りで現役を引退した[10]。 1991年から2011年は野球解説者・スポーツキャスターとしてテレビ朝日( - 1993年、2001年 - 2011年)、TBSテレビ・TBSラジオ(1993年[11]以降、テレビ解説は2000年まで[注 2])に出演。スポーツニッポン専属野球評論家も務める。そのかたわら、母校東京学芸大学および桐朋学園大学短期大学部の講師を務め、少年野球の普及育成に努めた。 2004年から白?大学助教授、2007年から准教授、2008年に教授に昇進。経営学部教授としてスポーツメディア論・野球型などを専門分野としていた[13]。なお、現在は監督業のため休職という扱いになっており、白?大学に籍を残している。 TBSラジオ解説者としてのコピーは熱中先生国際派。2002年までテレビ朝日のプロ野球中継にあったコピーは熱血先生。 北海道の栗山町から観光大使を依頼され、栗山町民との親交を深めたことがきっかけで、私財を投じて天然芝の野球場と練習場などを兼ね揃えた「栗の樹ファーム」を2002年に完成させている。(後述参照)また、同所に本拠を移している関係もあり、日本ハムファイターズが本拠地を東京から移す直前の2003年からは、HBCラジオをはじめとする道内放送局のファイターズ戦中継でも解説を行っていた。 2000年代以降は日本野球機構などが開催するシンポジウム「夢の向こうに」で第1回(2003年)から司会を務めるなど、プロ野球選手と高校球児の交流事業にも積極的に参加している。 2007年には、栗山の古巣であるヤクルトの選手兼任監督・古田敦也の引退により監督候補の一人として挙がったが、実現しなかった(最終的に高田繁が就任)。 2009年には、日本高等学校野球連盟が定めるアマチュア資格を満たさない元プロ野球選手としては初めて、同連盟から高校球児への直接取材を特別に認められた(日本学生野球憲章第10条の特例措置[14])。同年以降の全国高等学校野球選手権大会期間中には、プロ野球解説・評論などの活動と並行しながら、朝日放送(ABCテレビ)の「熱闘!高校野球ナビゲーター」として地方大会から同局制作の情報番組(『熱闘甲子園』など)で司会や取材を担当していた。
来歴
プロ入り前
ヤクルトスワローズ支配下選手時代
現役引退後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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