くりづか せいご
栗塚 省吾
生誕1853年12月16日
日本 東京都
死没 (1920-11-02) 1920年11月2日(66歳没)
出身校
大学南校(東京大学の前身校の一つ)退学パリ大学卒業パリ政治学院卒業
職業判事、弁護士、衆議院議員、地方議会議員
テンプレートを表示
栗塚 省吾(くりづか せいご、嘉永6年11月16日[1](1853年12月16日) - 大正9年(1920年)11月2日[2])は、日本の司法官僚、判事、弁護士、衆議院議員(立憲政友会)。位階・勲等は正三位勲三等[3][2]。 越前松平家の家老で越前府中(現在の越前市)を領した本多氏の家臣の子として、江戸の本多邸で生まれた。漢学を学んだ後、渡辺洪基に英語を、村上英俊にフランス語を学んだ。藩命で大学南校(東京大学の前身校の一つ)に入学するが、1872年(明治5年)に司法省明法寮に転じた。1875年(明治8年)、パリ大学に留学し、1878年(明治11年)に法学士の称号を得た。引き続きパリ政治学院で学び、1880年(明治13年)に卒業した。 帰国後、司法省書記官、司法大臣秘書官、法律取調委員会委員書記などを歴任。1886年には東京仏学校(現・法政大学)の創立に参画した。さらに1890年(明治23年)に司法省民事局長に就任すると、翌年には大審院判事に転じ、部長を務めた後、1898年(明治31年)に退官した。退官後は、弁護士を開業した。 1902年の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その後も第8回・第9回の総選挙に当選した。その他、本所区会議員に選ばれ、議長にも互選された[4]。
経歴
栄典
位階
1886年(明治19年)7月8日 - 正六位[5]
1890年(明治23年)12月28日 - 従四位[6]
1896年(明治29年)2月10日 - 正四位[7]
1898年(明治31年)9月20日 - 従三位[8]
1920年(大正9年)11月2日 - 正三位[9]
勲章
1897年(明治30年)12月28日 - 勲三等瑞宝章[10]
脚注[脚注の使い方]^ 『日本人名大辞典』 2001年12月6日 講談社刊 ISBN 978-4-06-210800-3
^ a b 『官報』第2481号 「官吏薨去及卒去」 大正9年11月8日
^ ⇒栗塚省吾特旨叙位ノ件
^ 『衆議院議員略歴』
^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
^ 『官報』号外「叙任及辞令」1890年12月28日。
^ 『官報』第3783号「叙任及辞令」1896年2月12日。
^ 『官報』第4570号「叙任及辞令」1898年9月21日。
^ 『官報』第2478号「叙任及辞令」1920年11月4日。
^ 『官報』第4350号「叙任及辞令」1898年1月4日。
参考文献
『新選代議士列伝』金港堂、1902年。
『第一回乃至第十八回総選挙 衆議院議員略歴』衆議院事務局、1932年。
⇒栗塚省吾特旨叙位ノ件(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
外部リンク
⇒パリ大学留学時代の栗塚省吾
表
話