栗原郡(くりはらぐん)は、宮城県(陸奥国・陸前国)にあった郡。 明治11年(1878年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。 神護景雲元年(767年)に当時の陸奥国最北の城として伊治城が築かれた後に置かれた。郡名として史料に伊治郡と上治郡、出土した漆紙文書に此治城があり、上治は此治の誤字で、此治が伊治と同音異字(「これはる」または「これはり」)とされる[1]。この郡名が後に栗原に変化したと考えられる[1]。 江戸時代には仙台藩領となる。栗原郡は92村を擁する大郡であったため、これを栗原(本栗原)・一迫・二迫・三迫・佐沼の五区に分割した。 区分村名所属代官区所轄郡奉行 このうち三迫の有壁村・片馬合村は、延宝9年(1681年)に岩沼藩から移封された田村氏一関藩に分知され、この状態が幕末まで続いた。 知行村数村名 宮城県第4大区(全16小区。栗原郡1?12・登米郡)
郡域
大崎市の一部(古川小野、古川沢田、古川北宮沢、古川宮沢、古川清滝、古川清水沢、古川雨生沢、古川荒谷、古川川熊、古川長岡、古川小林、古川桜ノ目)
登米市の一部(石越町各町、南方町各町および迫町新田、迫町各町)
栗原市の全域
歴史
栗原
(17か村)雨生沢村、荒谷村、荻生田村、小林村、川熊村、清滝村、小野村、桜目村、沢田村、清水沢村、高清水村、中村、長岡村、西村、宮沢村、北宮沢村、(栗原)富村田尻代官所北方郡奉行
一迫
(29か村)芋埣村、梅崎村、大川口村、太田村、荻沢村、刈敷村、川口村、狐崎村、清水目村、嶋体村、清水村、曽根村、築館村、照越村、留場村、長崎村、成田村、沼崎村、畑岡村、花山村、堀口村、真坂村、北沢村[2]、嶺崎村、上宮野村、下宮野村、八沢村、八樟村、柳目村、鬼首村宮野代官所中奥郡奉行
二迫
(14か村)姉歯村、泉沢村、稲屋敷村、鶯沢村、片子沢村、栗原村、桜田村、城生野村、梨崎村、菱沼村、文字村、八幡村、渡丸村、(二迫)富村
三迫
(28か村)赤児村、有賀村、有壁村、岩崎村、岩ヶ崎村、大林村、大原木村、小堤村、小迫村、片馬合村、金成村、猿飛来村、里谷村、沢辺村、末野村、鳥沢村、中野村、沼倉村、畑村、平形村、深谷村、福岡村、普賢堂村、藤渡戸村、松倉村、武鑓村、若柳村、石越村金成代官所
佐沼
(4か村)北方村、南方村、新田村、藤沢村佐沼代官所
近代以降の沿革
幕末時点では陸奥国に所属していた。「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通りである。下記のほか、江戸期には真坂村の端郷であった北沢村が独立村として記載されている。(92村)
藩領陸奥仙台藩90村雨生沢村、荒谷村、荻生田村、小林村、川熊村、清滝村、小野村、桜目村、沢田村、清水沢村、高清水村、中村、長岡村、西村、宮沢村、北宮沢村、(栗原)富村、芋埣村、梅崎村、大川口村、太田村、荻沢村、刈敷村、川口村、狐崎村、清水目村、嶋体村、清水村、曽根村、築館村、照越村、留場村、長崎村、成田村、沼崎村、畑岡村、花山村、堀口村、真坂村、嶺崎村、上宮野村、下宮野村、八沢村、八樟村、柳目村、鬼首村、姉歯村、泉沢村、稲屋敷村、鶯沢村、片子沢村、栗原村、桜田村、城生野村、梨崎村、菱沼村、文字村、八幡村、渡丸村、(二迫)富村、赤児村、有賀村、岩崎村、岩ヶ崎村、大林村、大原木村、小堤村、小迫村、金成村、猿飛来村、里谷村、沢辺村、末野村、鳥沢村、中野村、沼倉村、畑村、平形村、深谷村、福岡村、普賢堂村、藤渡戸村、松倉村、武鑓村、若柳村、石越村、北方村、南方村、新田村、藤沢村
陸奥一関藩2村有壁村、片馬合村
明治元年
9月24日(1868年11月8日) - 仙台藩主伊達慶邦が薩長軍に降伏。全領土62万石を没収される。
12月7日(1869年1月19日) - 陸奥国が分割され、本郡は陸前国の所属となる。
12月23日(1869年2月4日) - 旧・仙台藩領が宇都宮藩取締地となる。
明治2年
1月14日(1869年2月24日) - 戊辰戦争後の処分により一関藩が減封。全域が宇都宮藩取締地となる。
3月22日(1869年5月3日) - 宇都宮藩取締地が栗原県を称する[3]。
8月7日(1869年9月12日) - 栗原郡のうち、栗原・佐沼および一迫のうち17村(梅崎・大川口・太田・荻沢・刈敷・清水・曽根・築館・照越・留場・沼崎・畑岡・堀口・真坂・八沢・八樟・柳目)・三迫のうち2村(石越・若柳)が登米県の管轄となる。
8月12日(1869年9月17日) - 栗原郡のうち、二迫および一迫のうち12村(芋埣・川口・狐崎・清水目・嶋体・長崎・成田・花山・嶺崎・上宮野・下宮野・鬼首)・三迫のうち26村(赤児・有賀・有壁・岩崎・岩ヶ崎・大林・大原木・小堤・小迫・片馬合・金成・猿飛来・里谷・沢辺・末野・鳥沢・中野・沼倉・畑・平形・深谷・福岡・普賢堂・藤渡戸・松倉・武鑓)が胆沢県の管轄となる。
明治3年(1870年) - 真坂村端郷の北沢村を独立村として扱う。(93村)
明治4年
11月2日(1871年12月13日) - 第1次府県統合により、全域が一関県の管轄となる。
12月13日(1872年1月22日) - 一関県が水沢県に改称。
明治5年4月9日(1872年6月10日) - 大区小区制施行。
明治8年(1875年)10月17日 - 以下の各村の統合が行われる。(56村)
小山田村 ← 西村、荻生田村
山田村 ← 北宮沢村、雨生沢村
嵯峨村 ← 宮沢村、小林村
大里村 ← (栗原)富村、中村
豊岳村 ← 川熊村、桜目村
太沢村 ← 太田村、八沢村、留場村[横須賀]
白幡村 ← 刈敷村、沼崎村
玉荻村 ← 荻沢村、照越村
姫郷村 ← 堀口村、八樟村
金田村 ← 川口村、清水目村、嶋体村
王沢村 ← 狐崎村、北沢村
駒崎村 ← 中野村、猿飛来村
鳥谷村 ← 鳥沢村、深谷村、里谷村
賢児村 ← 普賢堂村、赤児村
有馬村 ← 有壁村、片馬合村
大岡村 ← 大林村、福岡村
大堤村 ← 大原木村、小堤村
津久毛村 ← 平形村、岩崎村、小迫村
宮野村 ← 上宮野村、下宮野村、留場村[横須賀を除く]
宝来村 ← 芋埣村、泉沢村、嶺崎村、渡丸村
富野村 ← (二迫)富村、城生野村
沢田村が荒谷村に、清水沢村が清滝村に、長岡村が小野村に、曽根村が柳目村に、大川口村が長崎村に、清水村が真坂村に、桜田村が八幡村に、畑村が金成村に、梨崎村が姉歯村に、菱沼村が栗原村に、成田村が築館村にそれぞれ合併。
明治9年(1876年)
4月18日 - 第2次府県統合により宮城県の管轄となる。
11月 - 区の再編により、栗原郡は登米郡と共に宮城県第4大区となる。
小区所属村
小1区清滝村・山田村・荒谷村・小野村・嵯峨村・豊岳村
小2区高清水村・小山田村・藤沢村・大里村、南方村の一部〔西郷〕、新田村の一部〔新田上村〕
小3区築館村・玉荻村・太沢村・真坂村・柳目村・姫郷村
小4区宮野村・富野村・王沢村・片子沢村・宝来村・姉歯村・栗原村
小5区長崎村・金田村・花山村・鬼首村
小6区稲屋敷村・八幡村・文字村・鶯沢村
小7区岩ヶ崎村・沼倉村・松倉村・駒崎村・鳥谷村
小8区金成村・沢辺村・津久毛村・大堤村・有馬村・賢児村・末野村・藤渡戸村
小9区梅崎村・白幡村・畑岡村
小10区若柳村・大岡村
小11区石越村・有賀村・武鑓村
小12区北方村、南方村の一部〔南方〕、新田村の一部〔新田下村〕
明治10年(1877年) - 石越村の所属郡が登米郡に変更。(55村)
明治11年(1878年)
10月21日 - 郡区町村編制法の宮城県での施行により、行政区画としての栗原郡が発足。郡役所が築館村に設置。
10月29日[4] - 鬼首村の所属郡が玉造郡にそれぞれ変更。(54村)
明治12年(1879年) - 北方村・南方村・新田村の所属郡が登米郡に変更。(51村)
町村制以降の沿革1.長岡村 2.宮沢村 3.清滝村 4.高清水村 5.藤里村 6.玉沢村 7.築館村 8.宮野村 9.富野村 10.姫松村 11.一迫村 12.長崎村 13.金田村 14.花山村 15.鶯沢村 16.尾松村 17.文字村 18.栗駒村 19.岩ヶ崎町 20.鳥矢崎村 21.萩野村 22.金成村 23.津久毛村 24.沢辺村 25.大岡村 26.有賀村 27.若柳町 28.畑岡村 29.志波姫村(紫:大崎市 桃:栗原市)
明治22年(1889年)4月1日 - 町村制施行により、以下の町村が発足[5]。