栗原 貞子(くりはら さだこ、1913年3月4日 - 2005年3月6日)は詩人。「生ましめんかな」や「ヒロシマというとき」で知られる。 広島県広島市生まれ。可部高等女学校(現広島県立可部高等学校)在学中の17歳から、短歌・詩を中心に創作活動を始めた。1930年、山本康夫が広島で創刊した歌誌『処女林』(1932年に『真樹』に改題)の同人となる[1]。1945年8月6日(広島市への原子爆弾投下)に爆心地の4キロ北の自宅で被爆。戦後は夫の栗原唯一
生涯
1990年第3回谷本清平和賞受賞。
2005年3月6日老衰のため広島市内の自宅で死去した。92歳。遺志を継いで護憲の活動をしている栗原真理子
は長女。この詩は原子爆弾が投下された後の夜、地下室に避難していた被爆者の1人が突然産気づき、同じ地下室内に避難していた1人の産婆が、自らの怪我を省みずに無事赤子を取り上げるが、それと引き換えに命を落としたという内容である。栗原は、広島市千田町の貯金支局庁舎の地下室[2]で新しい生命が生まれたという出来事を伝え聞き、感動してこの詩を書きあげた[3]。消えていく命と生まれ出る命を対比的に表現し、原爆を主題とした詩の中で、原爆の悲劇と人間のたくましさ、未来への希望を表現した名作との評価は高く、原爆詩の代表作の1つとされている。現在は広島地方貯金支局の後身機関である日本郵政株式会社中国支社の敷地内にある『郵政関係職員慰霊碑』と共に『生ましめんかな』の歌碑が建てられている。なお、詩の中の産婆は地下室で亡くなるが、モデルとなった産婆も、妊婦と子供も、命を取り留め、戦後社会を生きている[4][5][6][7][8]。 原爆を語ることで、日本の戦争責任、侵略の記憶と向き合おうとした詩である。この詩の背景には、1965年のアメリカによる北ベトナム爆撃開始によって激しさを増していたベトナム戦争がある。栗原はベトナム反戦運動(ベ平連)に参加する中で、日本もベトナム戦争の加害者ではないのかという自覚をもつようになる。そうした自覚は、アジア・太平洋戦争における日本の戦争責任について考えることにもつながっていった。広島の原爆投下という歴史的出来事の受け止め方についても立場によって大きな違いがあることを前提とし、その違いを乗り越えることをテーマとしている。
「ヒロシマというとき」
著書
私は広島を証言する 詩集 詩集刊行の会 1967
ヒロシマ24年 どきゅめんと 現代の救済 社会新報 1970 (新報新書)
ヒロシマの原風景を抱いて 未來社 1975
ヒロシマというとき 三一書房 1976
核・天皇・被爆者 三一書房 1978
未来はここから始まる ヒロシマ詩集 詩集刊行の会 1979
核時代に生きる ヒロシマ・死の中の生 三一書房 1982
核時代の童話 反核詩集 詩集刊行の会 1982
黒い卵 占領下検閲と反戦・原爆詩歌集 完全版 人文書院 1983
栗原貞子詩集 吉田欣一
ヒロシマ 詩と画で語りつぐ反核詩画集 吉野誠画 詩集刊行の会 1985
青い光が閃くその前に 反核詩画集 吉野誠画 詩集刊行の会 1986
問われるヒロシマ 三一書房 1992
栗原貞子全詩篇 土曜美術社出版販売 2005
人類が滅びぬ前に 栗原貞子生誕百年記念 広島文学資料保全の会 2014 未発表作品を収録
脚注^ 古浦千穂子「栗原貞子の人と文学」
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