栗原孝
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 栗原 孝 Takashi KURIHARA
基本情報
名前栗原 孝
生年月日 (1947-10-21)
1947年10月21日(76歳)
身長172 cm (5 ft 8 in)
体重70 kg (154 lb)
国籍 日本
出身地東京都
経歴
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栗原 孝(くりはら たかし、1947年10月21日 - )は東京都出身のプロゴルファー
来歴

練馬区立大泉第二中学校卒業[1]

プロ入りして間もなく交通事故にあって骨折などの大ケガをするが無事に復帰[1]し、1972年日本プロでは石井裕士と並んでの10位タイ[2]に入った。

1973年にホームの武蔵CCで開催された関東オープンでは、上位陣が総崩れの中、通算4アンダーで草柳良夫田中文雄と三つ巴のプレーオフを戦う[3]。3ホール目の9番ホールでバーディを奪って奇跡の逆転優勝を果たし、武蔵CC所属プロとして初のトーナメント優勝となった[3]

1974年静岡オープンでは金井清一鷹巣南雄島田幸作新井規矩雄を破ってツアー2勝目を挙げ[4] [5] [6]1975年の産報チャンピオンズでは初日をグラハム・マーシュ(オーストラリア)と共に首位の内田繁と1打差の2位タイ[7]でスタートし、最終日は76を叩いて6位[8]に終わった。

1979年阿蘇ナショナルパークオープンでは安田春雄前田新作とのプレーオフを制して5年ぶりのツアー優勝[9] [6]を挙げ、1980年新潟県オープンでは石井秀夫・金井・内田袈裟彦上原宏一船渡川育宏に次ぐと同時に田原紘と並んでの7位タイに入った[10]

1982年広島オープン羽川豊を抑えて3年ぶりのツアー優勝を挙げ[6]、ホームで開催された日本オープンでは藤木三郎・陳志明(中華民国)と並んで矢部昭の8位タイと健闘[3] [11]かながわオープン[12]では豊田明夫青木功杉原輝雄鷹巣南雄に次ぐと同時に矢部・坂下定夫山本善隆尾崎直道森憲二を抑え、中村通と並んでの5位タイに入った[13]

7年間シード外の悲哀を味わった末に、1983年からシード復帰を果たし[1]、同年のダンロップ国際オープンでは7位に入る[14]。静岡オープンでは矢部・金井・佐野修一渡辺司・杉原・中村通を抑え、草壁政治と並んで中嶋常幸の2位タイに入った[15]

1984年日本プロでは初日4ホールをプレーしただけで腰痛のために棄権し、以後4週間を休養に当てる[16]医者からは水泳はOKと出たため、連戦の疲れが出て、ゴルフにも根気が無かったところであった栗原は思い切り遊んで気分転換に成功[16]。復帰後のサントリーオープン[17] [18]では初日に64という目覚ましいゴルフで8アンダーをマークし、マンデートーナメントから出場の鈴木弘一に1打差、青木には2打差、フレッド・カプルスアメリカ)には3打差を付けて首位に立つ[16]。2日目も3バーディ、ノーボギーと堅調なゴルフであったが、前日と同じ66で回った青木に1打逆転されて2位となる[19]。3日目には青木と14番を終わって並んでいたが、青木が16番のパー3でティーショットをグリーン奥にこぼして寄らず入らずのボギーにし[19]、栗原は17、8番を連続バーディにして突き放した[20]。7バーディ2ボギーの67で71の青木に3打差を付けて抜け出すと[19]、最終日には6番のパー5でイーグルを取った段階で青木に6打差を付ける[20]。後半には青木に2バーディで4打差と詰められ[20]、優勝を意識したか3ボギーを打ったが[20]、2年ぶりの優勝を果たして、秋口のうちにシードを確保[1]

決して満足な体調ではないが、持ち前の粘り強さとショートゲームの巧さで活躍し、ツアープロとクラブプロという実績は高く評価された[1]

1985年のブリヂストン阿蘇オープンでは謝敏男(中華民国)・倉本昌弘湯原信光・中村・尾崎直・木村政信高橋勝成尾崎将司宮本康弘に次ぎ、新井・金子柱憲・金井・安達典夫川上実と並んでの10位タイ[21]に入った。

1986年の静岡オープンでは3日目に首位に立ったが、最終日には2位の尾崎将と共に崩れ去り、新関善美と並んでの7位タイ[22] [23]に終わった。

1990年水戸グリーンオープンでは岩下吉久と並んで時任宏治の2位タイに入り[24]1993年のサントリーオープン[25]を最後にレギュラーツアーから引退。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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