さかえはまむら
栄浜村
廃止日1949年6月1日
廃止理由国家行政組織法施行
廃止時点のデータ
国 日本
地方樺太地方
都道府県樺太庁 豊原支庁
郡豊栄郡
面積約1,017.918[1] km2.
総人口4,094人
(1941年12月1日)
隣接自治体豊栄郡落合町、白縫村、豊北村
大泊郡富内村
泊居郡泊居町、名寄村
栄浜村役場
所在地樺太庁豊栄郡栄浜村
特記事項1943年4月1日以降は北海地方に所属。
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栄浜村(さかえはまむら)は、日本の領有下において樺太に存在した村(指定町村)。
現状に関してはスタロドゥプスコエの項目を参照。 ([3]) 以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの[4]。
概要
オホーツク海に面し、豊栄郡落合町を取り囲む形で位置していた。
1902年にブロニスワフ・ピウスツキが同地のアイヌの集落アイ(日本名:相浜[2])に住み、樺太アイヌの女性、チュフサンマと結婚。日露戦争勃発後の1904年まで滞在していた。
1923年8月に宮沢賢治が当地を訪れている。詩「オホーツク挽歌」(詩集『春と修羅』所収)および童話「サガレンと八月」は、村内の海岸が舞台と見られている。
村内には東京帝国大学の演習林が存在した。
歴史
1915年(大正4年)6月26日 - 「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」(大正4年勅令第101号)の施行により、栄浜村、福浜村、富浜村が行政区画として発足。栄浜郡に所属し、豊原支庁が管轄。
1923年(大正12年)4月1日 - 福浜村・富浜村が栄浜村に合併。
1929年(昭和4年)7月1日 - 樺太町村制の施行により二級町村となる。
1937年(昭和12年)7月1日 - 豊原支庁が豊栄支庁に改称。
1942年(昭和17年)11月 - 所属郡が豊栄郡に、管轄支庁が豊原支庁にそれぞれ変更。
1943年(昭和18年)4月1日
「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)が廃止され、内地編入。
指定町村となる。
1945年(昭和20年)8月22日 - ソビエト連邦により占拠される。
1949年(昭和24年)6月1日 - 国家行政組織法の施行のため法的に樺太庁が廃止。同日栄浜村廃止。
村内の地名
栄浜
新栄浜
内淵(ないぶち)
北踏辺(きたふんべ)
北負咲(きたおぶさき)
察札(さつさつ)
魯礼(ろれい)
北木名(きたきな)
落歩(おちほ)
押江(おしえ)
埼沢(さきざわ)
野高(のだか)
利耶累(りやるい)
幌奈(ほろな)
島矢(しまや)
柏浜(かしわはま)
古河口(ふるかわぐち)
古河尻(ふるかわじり)
白鳥(はくちょう)
旧福浜村地域
宗運(そううん)
南木名(みなみきな)
歌泊(うたどまり)
北藻入(きたもいれ)
野寒(のっさむ)
南踏辺(みなみふんべ)
犬主(いぬぬし)
綾牛(あやうし)
亜南(あなん)
島古丹(しまこたん)
旧富浜村地域
小田寒(おださむ)
北板田(きたいただ)
白浜(しらはま)
相浜(あいはま)
富浜(とみはま)
曲瀬(きょくせ)
亜宝(あたから)
日和岡(ひよりおか)
柳沢(やなぎさわ)
地域
教育
樺太公立栄浜国民学校
樺太公立崎沢国民学校
樺太公立野寒国民学校
樺太公立新栄浜国民学校
樺太公立相浜国民学校
樺太公立相浜第一国民学校
樺太公立白鳥国民学校
樺太公立富浜国民学校
樺太公立白浜国民学校
樺太公立小田寒国民学校
脚注^ 樺太年鑑 昭和8年(樺太敷香時報社・著、樺太敷香時報社 1933年)に「面積約六十六方里」とあり。
^ ⇒一般社団法人全国樺太連盟の ⇒地図参照
^ 南樺太:概要・地名解・史実(西村いわお・著、高速印刷センター内出版部 1994年)より。
^ 北海道立教育研究所『北海道教育史 地方編2』(1957年)p. 1678 - 79
関連項目
樺太庁の廃止市町村一覧
宮沢賢治
オホーツク海
表
話
編
歴
豊北村 | 川上村 | 落合町 | 栄浜村 | 白縫村
大泊郡
大泊町 | 千歳村 | 深海村 | 長浜村 | 遠淵村 | 富内村 | 知床村
留多加郡