この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "栄国寺"
栄国寺
所在地愛知県名古屋市中区橘一丁目21番38号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度9分13.187秒 東経136度54分4.698秒 / 北緯35.15366306度 東経136.90130500度 / 35.15366306; 136.90130500座標: 北緯35度9分13.187秒 東経136度54分4.698秒 / 北緯35.15366306度 東経136.90130500度 / 35.15366306; 136.90130500
山号清涼山(せいりょうざん)
宗派浄土宗
本尊阿弥陀如来
創建年寛文4年(1665年)
開基西光院第九世任空可信
正式名清涼山栄国寺
文化財刺繍涅槃図(名古屋市指定文化財)
法人番号2180005000199
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}愛知県の地図を表示名古屋市の地図を表示
テンプレートを表示
本尊 阿弥陀如来坐像阿弥陀如来が元々あったと伝わる犬山市塔野地にある山王権現と薬師如来の由来について記された石碑体内に骨や五臓を再現した「五臓阿弥陀」(阿弥陀如来半跏像)清凉寺式釈迦如来立像
栄国寺(えいこくじ)は、愛知県名古屋市中区橘一丁目にある西山浄土宗の寺院。山号は「清涼山」(せいりょうざん)。栄國寺とも表記される。 寛文4年(1665年)、徳川光友が、刑場を千本松原から土器野(現在の清須市)に移し、千本松原刑場跡地に、西光院第九世任空可信を開祖として開基する。 尾張藩の初代藩主徳川義直、二代目の徳川光友は、徳川のキリシタン弾圧の時代においても、当初はキリシタンに寛容であったとされている[WEB 1]。寛永8年(1631年)より、藩内でキリシタン伝道に携わった者の処刑を始める。寛永21年(1644年)から、正保2年(1645年)にかけて名古屋城中からもキリシタンが捕らえられ処刑された。この地で処刑された彼らキリシタンを弔うため町岡新兵衛は、慶安2年(1649年)この処刑地に石の供養塔を建立した。寛文元年(1661年)春以来数多くのキリシタンが藩内の諸村から検挙されると、尾張藩は、そのうち伝道に努めたと思われる男女二百余人だけを、寛文四年十二月十九日(1665年2月3日)千本松原刑場で処刑し、他のキリシタンの助命をはかった。しかし、幕府の命令により、結局捕縛させた二千人余のキリシタン全員を寛文7年(1668年)に、別の地にて処刑することとなった。このとき、尾張のキリシタンは、ほぼ絶滅したとされる[WEB 2]。 寛文4年(1665年)、徳川光友が、刑場を千本松原から土器野に移し、千本松原刑場跡地に、その跡に菩提のため「清涼庵」を開基する。初代の開祖は、西光院第九世任空可信である。 本尊の阿弥陀如来坐像は、寄木造で作られ、眼には玉眼が施されている。像高223cm。寛文6年(1666年)、尾張北部の丹羽郡塔ノ地村(現在の愛知県犬山市塔野地)にあった比叡山延暦寺の別院・薬師寺から、千人塚別名切支丹塚の菩提のため、徳川光友が大八車で移させたと伝わる。「火伏不思議の弥陀」と信仰され、その名の通り、名古屋空襲の戦災も逃れた。鎌倉時代の仏工・春日の作と伝えられる。名古屋最古の丈六の三大佛の一つで、愛知県指定有形文化財である。 本堂内にはこの他にも、仏像の中に内臓や骨までも再現された阿弥陀如来半跏像(「五臓阿弥陀」)や、像内の頸部に逆さまにひっかかかったような小仏像や鈴が納入された状態の清凉寺式釈迦如来立像(衣紋は流水紋ではあるが頭髪は縄目ではなく螺髪になっている)なども安置している。
由緒