栃煌山雄一郎
[Wikipedia|▼Menu]

栃煌山 雄一郎

場所入りする栃煌山
基礎情報
四股名影山 雄一郎→栃煌山 雄一郎
本名影山 雄一郎
愛称カゲ、シャケ[1]、和製朝青龍(若手時代)、ピ関
生年月日 (1987-03-09) 1987年3月9日(37歳)
出身高知県安芸市
身長188cm
体重155kg
BMI43.85
所属部屋春日野部屋
得意技右四つ・寄り・もろ差し・押し・肩透かし
成績
現在の番付引退
最高位東関脇
生涯戦歴661勝598敗19休(91場所)
幕内戦歴573勝563敗19休(77場所)
優勝三段目優勝1回
殊勲賞2回
敢闘賞2回
技能賞2回
データ
初土俵2005年1月場所
入幕2007年3月場所
引退2020年3月場所
(番付上は2020年7月場所)
引退後年寄・清見潟
趣味読書(特に武道関連)、寝ること
備考
金星6個(白鵬1個、日馬富士1個、鶴竜1個、稀勢の里3個)
2020年7月15日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

栃煌山 雄一郎(とちおうざん ゆういちろう、1987年3月9日 - )は、高知県安芸市出身[2][注釈 1]春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は影山 雄一郎(かげやま ゆういちろう)、愛称はカゲ。身長188cm、体重155kg[4]血液型はA型。得意手は右四つ・寄り・もろ差し・押し。最高位は東関脇2010年11月場所、2015年7月 - 2016年1月場所)。好物は豚カツ[5]趣味は読書、寝ること。いわゆる「花のロクイチ組」の1人[6]。現在は年寄・清見潟[7]
人物
入門前

影山が相撲を始めたのは小学2年生の時であり、父親に頼んで地元の安芸少年相撲クラブに入団した。小さい頃から体が大きく同級生たちと比べても頭ひとつふたつ抜きん出ていたが性格はおっとりとしていた。父方の祖父が相撲好きということもありテレビの大相撲中継をよく観ていた。また安芸市は相撲が盛んな町だったため自然と角界への憧れは育まれていった。だが虫を怖がるなど臆病な面を持ち合わせていた影山は相撲の稽古でも弱音を吐いてばかりいた。「はじめは稽古がきつくて、休みが1日もなかった。それで相撲が嫌いになって、逃げてばかりいました」と本人が当時の様子を証言しており、上級生に引き戻されては「やめたい」と嘆くことを繰り返していた時期もあったという。母親はそんな影山を「いつまで続くやろうね」というぐらいの気持ちで見守っていた。相撲を習い始めた頃は相当期待薄であったようであり、両親が初めて稽古を見に行った時の影山は自分よりも小さい子と組み合っては「痛い」「触るな」「あっちいけ」と叫びながら相撲を取っており、当時これを見た両親は「ダメだ、これは」と落胆してその場を後にしたという。それでも影山は負けず嫌いの性格で相撲をやめず、日々の稽古を積んでいくうちに精神的にも逞しく成長していき、4年生になると「やめたい」と漏らすこともなくなった。4年次からわんぱく相撲の全国大会に出場するようになり、6年時にはわんぱく相撲大会でベスト16、全日本小学校相撲優勝大会ではベスト8に入るなど実績を挙げるようになった。わんぱく相撲の全国大会に出場した際には相撲部屋に宿泊した経験もあり、4年時は鏡山部屋、5年時は北の湖部屋。そして6年時には後の所属先である春日野部屋に泊まった[8]

その後当時相撲部の監督を務めていた吉田道彦を「稽古の鬼」と仰ぎその吉田の指導を受ければ自分は強くなれると信じて安芸市立安芸中学校に進学する。吉田は入学前から影山に光るものを感じていたが差し身が自然にできていたことに関して「差したり、まわしをとることで楽を覚えたら、雄一郎の伸びが止まると思った。」と感じ、投げや相手を崩す技は全く教えずひたすらぶつかり稽古を課して出足を鍛えた。中学2年時に全国中学校体育大会(以下、全中)の団体戦決勝で1-2と惜敗したことをきっかけに吉田は影山の母親や学校にも協力を仰ぎ増量を敢行し、1日5食の食事稽古をこなした結果として2年夏の時点で75kgしかなかった体重を1年後に120kgまで伸ばした。こうした努力が実り、準々決勝で宿敵・澤井豪太郎(現・年寄「武隈」、元大関・豪栄道)を寄り切るなどの活躍を果たしたことで3年時の全中団体戦を制し、個人戦でも中学横綱のタイトルを得る[9]

明徳義塾高進学後も、小学校時代からのライバル埼玉栄高の澤井と切磋琢磨して、良き関係を築いた。高校時代は浜村敏之監督(当時)の指示の下にあっても稽古には難なくついて行き、自身が「一番きつかった」と語る腕立て伏せによって肩関節が鍛えられ、それまで脱臼しやすかった肩が負傷することもなくなった[10]。1年生の時には既に春日野部屋に勧誘され、最初は1学年下の立野(のちの十両・千代桜)をスカウトしに来たのかと思っていたが親方から「今のお前じゃ幕下にも勝てないな。でも、鍛えれば強くなるよ」と本音で誘ってくれたと思って気持ちが傾いた。3年生の秋に春日野部屋に体験入門したが、本当に部屋の幕下には勝てなかった[11]
入門から新入幕まで

大学進学も検討していたが、高校卒業直前には2005年1月場所に澤井と同時に初土俵を踏む。入門当初はおっつけ摺り足に課題があり、稽古で改善を重ねていった。[10]そうして初土俵から勝ち越しを続け、同年11月場所では7戦全勝で三段目優勝を果たし、翌2006年1月場所に幕下へ昇進し、西幕下3枚目の位置まで番付を上げた同年5月場所では5勝2敗という好成績を挙げたものの、幕下に陥落する力士が少なかったために場所後の十両昇進はならなかった。翌7月場所でも東幕下筆頭の位置で6勝1敗という好成績を挙げて、初土俵から1回も負け越すことなく、翌9月場所において新十両へ昇進した。初土俵から所要10場所での十両昇進は貴花田朝青龍露鵬時天空と並ぶ史上9位タイのスピード記録となった。また、十両昇進と同時に四股名を本名の「影山」から「栃煌山」へと改めた。「栃煌山」という四股名は、春日野親方と母親が相談して決めた。春日野部屋の多くの力士がつける「栃」、そこから煌めいて欲しいとの思いを込めて「煌」、そして本名の影山から「山」をとり、「栃煌山」となったま。また当初は「とちおうやま」と読ませる予定だったが、実母の「濁点を含んだほうが力強く聞こえる」と言う提案を踏まえ「とちおうざん」となった。実は栃煌山自身は、記者会見当日まで四股名を知らされておらず、「記者の人たちに“四股名、どう思いますか?”“どういう由来ですか?”と言われたのですが、その時に初めて聞いたので返答に困りました」という[12]。新十両の昇進会見では、色紙に「横綱になる」と記している。十両昇進当時は将来の横綱昇進は確実とまでその才能を評価され「和製朝青龍」とその才能を表現する向きもあった。

新十両となった2006年9月場所では9勝6敗と勝ち越し、西十両2枚目の位置まで大きく番付を上げた翌2007年1月場所では10勝5敗の好成績を挙げ、霜鳥豊響との優勝決定戦に進出した。優勝決定戦は豊響が制して十両優勝はならなかったものの、翌3月場所において新入幕を果たした。初土俵から13場所での新入幕は旭富士・貴花田・武蔵丸豊真将に続き史上9位タイのスピード記録となった。
入幕から三役昇進まで

新入幕の場所に際して栃煌山は幕内の勝ち越しを目標に掲げていたが、師匠の春日野親方(元関脇・栃乃和歌)は期待を込めて10勝と敢闘賞獲得を命じた。その2007年3月場所では前に出る相撲が冴えて、終盤まで優勝争いに参加する活躍を見せ、11勝4敗の好成績を挙げて初の敢闘賞を受賞した。西前頭4枚目の位置へ昇進した翌5月場所では6勝9敗と自身初となる負け越しを経験した。続く7月場所では左肩関節を脱臼して11日目から休場し、翌9月場所では10日目の時点で7勝3敗という成績を挙げていながら、11日目から5連敗を喫して7勝8敗と負け越してしまった。のちにこの不振を栃煌山が「その頃は(顔を)張られたら、すぐに横向いてしまって、当たり削がれちゃうことがあったんです。ひとりがそれをやったら、それを見た他の力士も張ってくるようになった。“幕内は研究してくるんだな”と思いましたね」と振り返った様子が伝えられている。[12]靖国神社奉納相撲での栃煌山関(2008年4月10日撮影)

2008年1月場所では8勝7敗と新入幕の場所以来となる勝ち越しを果たし、続く3月場所では初日から7連勝して11勝4敗という好成績を挙げて初の技能賞を獲得した。2009年1月場所では初日から8連勝して10勝5敗の好成績を挙げ、自己最高位となる西前頭2枚目まで番付を上げた翌3月場所でも序盤に3大関を破る活躍で8勝7敗と勝ち越しを決め、翌5月場所に新三役となる西小結へと昇進した。その5月場所では6勝9敗と負け越し、平幕へ陥落した翌7月場所では場所の中盤に風邪を引いて体調を崩してしまい、初日から13連敗して2勝13敗という惨敗を喫してしまった。
大関候補へ

2010年5月場所で6場所ぶりに西小結へ復帰し、その5月場所では7勝8敗と負け越したものの、東前頭筆頭の位置で迎えた翌7月場所では9勝6敗と勝ち越し、翌9月場所で西関脇へ昇進した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:98 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef