栃司哲史
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栃司 哲史

基礎情報
四股名栃司 哲史
本名後藤 哲雄
生年月日 (1958-04-25)
1958年4月25日(65歳)
出身愛知県名古屋市中川区
身長180cm
体重159kg
BMI49.07
所属部屋春日野部屋
得意技突き、押し、突き落とし、いなし、叩き
成績
現在の番付引退
最高位西関脇
生涯戦歴465勝448敗25休(68場所)
幕内戦歴206勝249敗25休(32場所)
優勝十両優勝2回
敢闘賞1回
技能賞1回
データ
初土俵1981年3月場所
入幕1983年9月場所
引退1992年5月場所
引退後年寄入間川
備考
金星3個(隆の里1個、千代の富士1個、北勝海1個)
2014年4月9日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

栃司 哲史(とちつかさ てつお、1958年4月25日 - )は、愛知県名古屋市中川区出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は後藤 哲雄(ごとう てつお)。最高位は西関脇1988年1月場所)。現役時代の体格は180cm、159kg。得意手は突き、押し、突き落とし、いなし、叩き。

現在は、年寄入間川として、雷部屋出羽海一門)の部屋付き親方を務めている。
来歴・人物

実家は「有限会社 後藤クレーン」という建設会社であり、2013年時点で現存している。

幼少よりスポーツ万能で、小学校の頃は水泳の大会などで優勝したが、中京中学校に入学すると相撲部に入部した。

中京中学校では全国中学校相撲選手権大会で優勝して中学生横綱に輝く等の優秀な成績を収め[1]、その後、中京高等学校(現在の中京大学附属中京高等学校)を経て日本大学に進学した。

しかし同大学の相撲部では、全国学生相撲選手権大会準優勝という成績はあったものの、個人タイトル獲得は1個のみとやや不完全燃焼であった。

大学卒業直前の1981年1月、春日野部屋へ入門。同年3月場所に於いて、幕下付出初土俵を踏んだ(同期には、大学時代の同期生でもある後の十両・花ノ藤や後の前頭・豊ノ海、同・鬼雷砲らがいた)。

以来順調に出世し、1982年1月場所で十両昇進、1983年9月場所では入幕を果たした。

突き押しに徹した相撲で幕内で活躍し、突き押しからのいなし、突き落とし、叩きもうまく決まった[1]立合いに突進力があり、横綱隆の里を土俵に這わせた事もある。1987年11月場所で10勝5敗を挙げて翌場所の1988年1月場所には関脇に昇進[1]

1992年5月場所限りで引退した後は、年寄・入間川を襲名し、暫くは春日野部屋付きの親方として後輩達を指導していた。

しかし翌年1月に、同部屋から独立し、入間川部屋を創設。前頭・皇司や同・Y司などを育てた。

ちなみに、長男の後藤良太はかつて埼玉栄高校の相撲部に所属しており、軽量級を中心に活躍していた。

同じ関脇を最高位としながら寺尾には相性が悪く、幕内昇進前も含め13戦全敗と一方的に負けている。その一方で、大関・若嶋津には強く、5勝1敗と得意にしていた。大関・横綱時の大乃国に対しても3勝6敗、大関時の小錦に対しては2勝3敗と健闘している。

1991年3月場所では、西十両筆頭で9勝6敗と勝ち越しながらも、再入幕を見送られるという珍しい事があった。これは幕内下位で負け越したのは1人だけだった事と、東十両筆頭にいた両国が9勝6敗と同じ成績を残し彼が優先されたためで、自身は東十両筆頭に回るにとどまった。

同年9月場所では10勝5敗と勝ち越し、翌場所で返り入幕を果たす。この時花道でガッツポーズを取っていた姿が、NHKの大相撲中継で放送された。

入間川部屋の名古屋場所に於ける宿舎は、名古屋市中川区にある実家の敷地を利用しており、稽古場はその隣にある。[2]日本大学相撲部の後輩に当たる皇司Y司や、磋牙司将司ら4人を幕内力士へと育て上げ、協会では審判委員を務めるなどしていたが、2011年に弟子の幕内・将司、幕下・恵那司(いずれも最高位)が大相撲八百長問題に関与していた監督責任で委員から主任へ1階級降格処分を受けた。2012年4月に委員に復帰し、2018年5月現在は役員以外の親方衆で構成される年寄会の会長を務めている[3]

2020年7月場所中、娘の職場で2019新型コロナウイルスの陽性者が出たことを受けて、新型コロナウイルスの抗原検査を受けたことが明かされた(結果は陰性)[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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