本来の表記は「? (橘型駆逐艦)」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
艦歴
計画1944年(昭和19年)度計画
建造所横須賀海軍工廠
起工1944年10月5日
進水1944年12月11日
竣工1945年3月5日
除籍1945年10月5日
その後1947年7月4日米国へ引き渡し、8月19日に標的艦として処分
要目(計画値)
排水量基準:1,262トン
公試:1,530トン
全長100.00m
全幅9.35m
吃水3.30m
主缶ロ号艦本式缶2基
主機艦本式タービン2基2軸 19,000馬力
速力27.8ノット
航続距離18ノットで3,500海里
燃料重油370トン
乗員211名/326名[1]
兵装40口径12.7cm高角砲 単装1基、連装1基
25mm機銃 3連装4基、単装12基
61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし)
九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発)
四式水中聴音機
柿[2](かき)は日本海軍の駆逐艦。仮称5517号艦、橘型(改松型)駆逐艦として舞鶴海軍工廠で建造された。
艦名は植物の柿による。艦名としては樅型駆逐艦の7番艦「柿」に続いて2代目。目次 竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完
1 艦歴
2 歴代艦長
3 脚注
4 参考文献
艦歴
やがて、第十一水雷戦隊は瀬戸内海への機雷投下を避けて日本海側に移動することとなる。5月27日に舞鶴に到着するも[10]、舞鶴鎮守府から「空襲の際に刺激となる」との理由で、舞鶴以外の場所へ移動するよう要請を受ける[11]。そこで、6月に入って小浜湾に移動することとなった[12]。7月15日付で特殊警備艦となって舞鶴鎮守府部隊に編入され[13]、小破のまま終戦を迎えた。10月5日除籍。12月1日特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事。1946年(昭和21年)12月15日、特別保管艦に指定[14]。1947年(昭和22年)7月4日、特別輸送艦の定めを解かれ[15]、賠償艦として青島で米国へ引渡され、8月19日に.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度29分 東経123度35分 / 北緯35.483度 東経123.583度 / 35.483; 123.583
の地点で標的艦として処分された[16]。