柵原鉱山
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柵原鉱山
所在地
柵原鉱山
所在地岡山県久米郡美咲町
日本
座標34°57′7.2″N 134°3′43.2″E / 34.952000°N 134.062000°E / 34.952000; 134.062000座標: 34°57′7.2″N 134°3′43.2″E / 34.952000°N 134.062000°E / 34.952000; 134.062000
生産
産出物硫化鉄鉱
歴史
閉山1991年
プロジェクト:地球科学Portal:地球科学
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柵原鉱山(やなはらこうざん)(英語;Yamhara Pyrite Mine[1]は、岡山県久米郡美咲町(旧柵原町)にあった、黄鉄鉱を中心とした硫化鉄鉱を主に産出した鉱山である。岩手県松尾鉱山とともに日本を代表する硫化鉄鉱の鉱山であった。 一番坑道口目次

1 地質学的特徴

2 柵原鉱山の鉱床

3 鉱山の歴史

3.1 鉱山の発見と藤田組経営に至るまで

3.2 藤田組の柵原鉱山経営

3.3 戦時下の柵原鉱山

3.4 同和鉱業時代の柵原鉱山

3.5 鉱山の閉山


4 片上鉄道について

5 閉山後の柵原鉱山

5.1 鉱水処理

5.2 坑道農業

5.3 ハイポキマイン・走路・やなはら

5.4 坑道見学会


6 柵原ふれあい鉱山公園

7 脚注

8 参考文献

9 関連項目

10 外部リンク

地質学的特徴

柵原鉱山は古生代ペルム紀中期に形成された、火山性の硫化物鉱床であると考えられている。同じ時期に中国地方各地で同様の鉱床が形成されたが、柵原鉱山の鉱床が最も規模が大きく総埋蔵量3700万トン以上と見積もられており、他の鉱床は小規模である[2]

柵原鉱山の鉱床は塊状ないしレンズ状をしており、舞鶴層の流紋岩質火山岩屑層内に分布している。鉱床としては吉井川沿いの柵原本鉱床とその周囲に複数の小鉱床がある[3]。柵原本鉱床は黄鉄鉱を中心としており、黄銅鉱閃亜鉛鉱が少量含まれる。また柵原鉱山周辺は白亜紀花崗岩の貫入が起きたことによって接触変成作用を受けており、柵原本鉱床も変成作用を受けて黄鉄鉱の一部が磁硫鉄鉱となっている。そして柵原鉱山最深部に分布する深部鉱床は変成作用の影響が強く、多くの鉱石が磁硫鉄鉱や磁鉄鉱となっている。また柵原本鉱床の周囲に分布する小鉱床からは斑銅鉱、黄銅鉱なども産出した[4]
柵原鉱山の鉱床 柵原鉱山の硫化鉄鉱

柵原鉱山の主要鉱床は、ほぼ吉井川沿いに分布する柵原本鉱床である。柵原本鉱床の最上部は柵原集落付近で地上に露出しており、地上付近の鉱床は酸化作用によって褐鉄鉱となっている。柵原本鉱床は柵原集落付近の露頭から南東方向に約10度の角度で地下に入り、地上に一番近い第一鉱体、続いて第二鉱体、第三鉱体、下部鉱体という4つの鉱体が連なっている。本鉱床の厚さは最大100メートル、幅400メートル、長さは4つの鉱体の合計で約2000メートルに達し、鉱石の埋蔵量は第一鉱体約540万トン、第二鉱体約310万トン、第三鉱体約780万トン、そして下部鉱体は約1890万トンという大きな鉱床であった。第一から第三鉱体は、標高99.5m(L-0)から海面下72.6m(L-10)に分布する。第一鉱体は山の中に存在するが、第二鉱体は吉井川と同レベルに位置し、第三鉱体は海面下の存在である。下部鉱体は第三鉱体に連なって深度を増し海面下237mから374mに存在する。一方下部鉱体の更に南側の深部には深部鉱床があり、海面下637mから918mに分布する。深部鉱床の鉱床は、厚みは他の鉱床と比べて薄いが、磁硫鉄鉱や磁鉄鉱が多く産出された。柵原本鉱床と深部鉱床の連なりから見て東側には高原、金堀、宝殿、休石、火の谷、西側には下谷、火田城、久木、下柵原という小鉱床が分布している。各小鉱床の主要鉱物はやはり黄鉄鉱を中心とした硫化鉄鉱であるが、西側の小鉱床と東側の火の谷鉱床は鉱石中の銅の含有量が高いという特徴があった[5]

柵原本鉱床は半岩盤が硬いため採掘が比較的容易であり、また産出される黄鉄鉱を中心とした硫化鉄鉱の品位が高く、鉱床内の夾雑物も少ないなど、極めて良好な鉱床であった[6]
鉱山の歴史
鉱山の発見と藤田組経営に至るまで

柵原鉱山は慶長年間に津山城を築城時、石材を集める際に褐鉄鉱の露頭を見つけたことが発見のきっかけと言われている[5]。しかし江戸時代の間、地元では発見された褐鉄鉱のことを「焼石」と呼ぶのみで全く利用されることはなく、柵原鉱山の採掘が始まったのは明治時代になってからであった[7]

1882年、柵原本鉱体の隣にある下柵原鉱体に当たる場所で、硫化鉄鉱の採掘を開始したのが柵原鉱山の採掘の開始であった。しかし当時の硫化鉄鉱の用途としては塗料と緑礬の製造くらいしかなかったため、鉱山の経営は困難で鉱山の所有者は転々と変わった。そのような状況の中、1893年になって吉井川対岸の久木地区から銅を含有する硫化鉱の露頭が発見され、久木鉱山と名づけられ好成績を挙げた。この露頭は後に久木鉱床と呼ばれるようになる。また1890年代になると硫化鉄鉱も化学工業で多用される硫酸の原料として注目されるようになり、硫化鉄鉱の採掘もまた軌道に乗り出した[8]

1884年、柵原付近の地質調査を行った地質学者の巨智部忠承は、褐鉄鉱の露頭を発見して製鉄材料に有望と判断した。この露頭が柵原本鉱床の露頭にあたり、1900年から露天掘りで褐鉄鉱の採掘が開始され、八幡製鉄所に送られるようになった。1902年には八幡製鉄所の事業が一時的に縮小された影響で一時休山となるも、日露戦争の開戦に伴う鉄鋼増産のために再開され、1905年には鉱山の経営権は鳩山和夫ら3名の手に渡った。鳩山らの経営時代、柵原本鉱床から硫化鉄鉱が発見され、硫酸の需要増大のために一時的に盛んに採掘されたが、日露戦争終結後の不況のために硫化鉄鉱の採掘は中断され、坑内湧水の増大によって鉱山自体の経営が困難となってしまい、1907年には再び休山となってしまった。なお最初に開発された下柵原鉱床は下柵原鉱山と呼ばれ、久木鉱山とともに柵原鉱山の浮沈とは関係なく順調な経営を続けていた[9]

1912年、下柵原鉱山の経営者が柵原鉱山を買収し、下柵原鉱山と柵原鉱山は合併して柵原鉱山と呼ぶようになった。さっそく柵原本鉱床の再開発が開始されたが、鉱床が吉井川に近いこともあって湧水量が多く、開発は困難を極めた[9]

この頃、彦島直島など、瀬戸内海沿岸の各地に古河鉱業鈴木商店などが非鉄金属の精錬所建設を進めていて、精錬する鉱石を得るために財閥間で瀬戸内地方の鉱山の買収が盛んになった。そのような中、藤田組は柵原付近の鉱山に目をつけ、1915年には柵原鉱山以外の鉱山、鉱区の買収を行い、綿密な調査の結果有望との結論が出た上で1916年、柵原鉱山を買収した[10]
藤田組の柵原鉱山経営


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