柴田吉太郎
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しばた きちたろう
柴田 吉太郎
生年月日 (1922-12-18)
1922年12月18日
没年月日 (2004-08-07) 2004年8月7日(81歳没)
出生地 日本 北海道
死没地 日本 東京都調布市
職業映画監督脚本家
ジャンル映画テレビ映画
活動期間1944年 - 1982年
活動内容1944年 東宝入社
1947年 新東宝設立に参加
1961年 新東宝倒産
1962年 監督デビュー
1964年 国際放映に改組
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柴田 吉太郎(しばた きちたろう、1922年12月18日[1] - 2004年8月7日[2])は、日本の映画監督脚本家である。
人物・来歴

1922年(大正11年)12月18日北海道に生まれる[1]

1942年(昭和17年)、早稲田大学専門部を卒業する[1]。1944年(昭和19年)、東宝撮影所(現在の東宝スタジオ)に入社、中川信夫らに師事した[1]

第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)、新東宝の設立に参加、引き続き中川や清水宏らの助監督を務めた。

1961年(昭和36年)、新東宝が倒産する。同社のプロデューサーだった佐川滉が設立した佐川プロダクションが製作し、新東宝の配給部門を分社化して設立された大宝が配給した映画『黒と赤の花びら』で、1962年(昭和37年)、40歳で監督としてデビューした。新東宝の製作部門はニッポン・アートフィルム・カンパニー(NAC)として分社化され、テレビ映画の製作を開始し、同年、柴田は、テレビ映画シリーズ『柔道一代』を監督した。1964年(昭和39年)、新東宝は国際放映に改組され、CACを吸収合併した。柴田は引き続き、国際放映でテレビ映画、とくに「ケンちゃんシリーズ」を手がけた。

1982年(昭和57年)、『チャコとケンちゃん』の放映終了とともに「ケンちゃんシリーズ」も終了、柴田も60歳を迎え、引退している。

2004年(平成16年)8月7日、肝臓がんのため、東京都調布市の自宅で死去した[2]。満81歳没。
フィルモグラフィ
助監督

もぐら横丁』 : 監督清水宏、1953年

番場の忠太郎』 : 監督中川信夫、1955年

『金語楼の雷社長』 : 監督毛利正樹、1956年

鋼鉄の巨人 怪星人の魔城』 : 監督石井輝男、1957年

鋼鉄の巨人 地球滅亡寸前』 : 監督石井輝男、1957年

スーパージャイアンツ 人工衛星と人類の破滅』 : 監督石井輝男、1957年

スーパージャイアンツ 宇宙艇と人工衛星の激突』 : 監督石井輝男、1958年

『黒線地帯』 : 監督石井輝男、1960年

『恋愛ズバリ講座 第三話 好色』 : 監督石井輝男、1961年 - 脚本

「粘土のお面」より かあちゃん』 : 監督中川信夫、1961年

監督

『黒と赤の花びら
』 : 佐川プロダクション / 大宝、1962年

柔道一代』 : テレビ映画、CAC / TBS、1962年

『愛の自画像』 : テレビ映画、国際放映 / 朝日放送、1966年 - 1967年

すし屋のケンちゃん』 : テレビ映画、国際放映 / TBS、1971年 - 1972年

ケーキ屋ケンちゃん』 : テレビ映画、国際放映 / TBS、1972年 - 1973年

おもちゃ屋ケンちゃん』 : テレビ映画、国際放映 / TBS、1973年 - 1974年

フルーツケンちゃん』 : テレビ映画、国際放映 / TBS、1976年 - 1977年

なかよしケンちゃん』 : テレビ映画、国際放映 / TBS、1981年 - 1982年 ?

チャコとケンちゃん』 : テレビ映画、国際放映 / TBS、1982年

^ a b c d柴田吉太郎日本映画監督協会、2009年9月18日閲覧。


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