柴田南雄
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柴田 南雄

基本情報
生誕 (1916-09-29) 1916年9月29日
日本東京府東京市神田区駿河台袋町
(現:東京都千代田区神田駿河台
死没 (1996-02-02) 1996年2月2日(79歳没)
学歴東京帝国大学理学部文学部
職業作曲家音楽評論家音楽学者
公式サイト ⇒http://sangakusha.obunko.com/
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柴田 南雄(しばた みなお、1916年大正5年9月29日 - 1996年平成8年)2月2日)は、日本作曲家音楽評論家音楽学者
略歴

東京府東京市神田区駿河台袋町(現:東京都千代田区神田駿河台)に生まれ、1945年まで東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現:新宿区百人町)で暮らす。

1921年東京女子高等師範学校附属幼稚園(現:お茶の水女子大学附属幼稚園)に入る。1923年暁星小学校入学。1932年暁星中学校から成城高等学校尋常科(現:成城大学)に編入。1933年、成城高等学校高等科理科甲類(英語クラス)に進んだ頃から、ピアノを岩井貞麿、ジェームス・ダンに、チェロを鈴木二三雄に、作曲を細川碧諸井三郎に、指揮法斎藤秀雄に師事。チェリストとして東京弦楽団に参加した。1936年に旧制成城高校を卒業し、東京帝国大学理学部植物学科に進む。1939年、東大植物学科卒業後、東京帝国大学大学院で植物学を研究したが、同年、学位を取らずに中退。1939年から東京科学博物館植物学部に嘱託として勤務。1941年に退職し、東京帝国大学文学部美学美術史学科に学士入学。1943年卒業。

理研科学映画社や日本音楽文化協会に勤務した後、東京音楽書院嘱託や文部省図書編纂委員を経て、1948年子供のための音楽教室桐朋学園大学音楽科の前身)の設立に参加。その後、フェリス女学院大学桐朋女子高等学校の音楽科で教鞭を執る。1955年からお茶の水女子大学助教授東京芸術大学にて1959年から助教授、1966年から1969年まで教授1981年から1983年まで尚美音楽短期大学教授。放送大学にて1984年から1990年まで教授、1990年から1993年まで客員教授。これらの大学の他、フェリス女学院大学、東京工業大学東京大学日本女子大学、尚美音楽短期大学などで非常勤講師として作曲音楽理論を教え、多くの音楽学者や作曲家を育成した。1971年には中卒の独学のギター教師仙道作三から何の紹介もなく弟子入りを申し込まれて承諾し、500円の月謝で音楽理論を個人教授し、仙道を一人前の作曲家に育て上げたこともある[1]

またNHK朝日新聞放送大学などで、ヨーロッパの深い客観性に基づいた音楽ジャーナリズムを展開した。1970年代以降は、いわゆる「第三世界」の民族音楽や日本の伝統音楽への傾斜を深める。

作曲家・音楽学者としてのその業績を称えられ、没後、音楽評論家のための顕彰柴田南雄音楽評論賞アリオン音楽財団によって創設された。浅田彰高橋悠治細川周平といった、柴田よりもはるかに年少の「うるさ型」の批評家からも好意的に言及された。

戦中から戦後にかけて戸田邦雄入野義朗らと交友、1946年新声会を組織し作品発表を重ねた[2]。また二十世紀音楽研究所に参加し、日本の十二音音楽の普及に尽くした[3]。晩年は民族音楽的なシアターピース作品が注目を集めた。肝臓癌で死去。
備考

父は柴田雄次。父方の祖父の柴田承桂は有機化学者・薬学者で東京医学校(現在の東京大学医学部)の製薬学科初代教授。父の長兄の柴田桂太は植物生理学者で東大教授。母方の祖父杉村濬(すぎむら ふかし)と、母の長兄の杉村陽太郎は共に外交官。母の次兄の杉村欣次郎は数学者で、東京高等師範学校(のち東京文理科大学を経て東京教育大学となる)で教授を務め、最後は埼玉大学で教えた。母方の祖母の姉の夫はキリスト教伝道者本多庸一。また、ハンガリー語学の泰斗徳永康元東京外国語大学名誉教授)は従兄。最初の妻(1945年3月12日結婚)は戸田邦雄の妹の戸田敏子(アルト歌手、東京芸術大学教授)[4][5]。二度目の妻は小野アンナ門下のヴァイオリニストで日フィル奏者だった鈴木純子[6]。純子との間に生まれた長男の柴田乙雄(おとお)は東京都交響楽団コントラバス奏者。次女の柴田りりは米国VaxGen社ウィルス学主任で、HIVワクチンの研究開発者。

このほかにも一族には学者が多かったため、「以下は冗談話だが、ともかくわたくしの親族には学者、とくに理科系の者が多く、わが家の法事などで父方と母方の双方の従兄弟達とその次世代の者が大集合した時などに、この顔ぶれなら私立の理科系の単科大学ひとつぐらい、わけなく作れるのではないかと思ったものだ。


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