柴田 勲基本情報
国籍 日本
出身地神奈川県横浜市中区
生年月日 (1944-02-08) 1944年2月8日(80歳)
身長
体重175 cm
74 kg
選手情報
投球・打席右投両打
ポジション外野手、投手
プロ入り1962年
初出場1962年4月8日
最終出場1981年10月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
法政大学第二高等学校
読売ジャイアンツ (1962 - 1981)
コーチ歴
読売ジャイアンツ (1981 - 1985)
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柴田 勲 (しばた いさお、1944年2月8日[1] - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(外野手、投手)・コーチ、解説者・評論家。現在は日本プロ野球名球会理事[2]、巨人OB会顧問。
高校時代は甲子園優勝投手として名を馳せ、読売ジャイアンツに入団後はリードオフマンとして巨人のV9に貢献した。通算579盗塁はNPB歴代3位でセ・リーグ記録。セ・リーグ最多記録となる盗塁王を6回獲得[3]。セ・リーグ初の外野手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している[4]。 小学生時代に当時米軍キャンプの子息らと対戦するために結成されたチームで野球を始め、中学校では野球部で投手を務める[5]。当初はチームメイトと公立校へ進むつもりだったが、好投した試合の審判がOBであったことから声がかかって[5]法政二高へ進学後は甲子園に4回出場、甘いマスクもあって人気者であった。 1959年夏の選手権に甲子園初出場。1回戦で西条高に敗退するが、この試合で1年生ながらリリーフとして甲子園初登板を果たす[6]。1960年夏の甲子園県予選は決勝で慶應高の渡辺泰輔と投げ合い、延長11回の激闘の末に辛勝、夏の選手権への出場を決める。大会では順調に勝ち進み、決勝では石山建一のいた静岡高に3-0で完封勝利、初優勝を飾る[6]。 1961年春の選抜は、決勝で左腕エース松下利夫(明大?四国電力)を擁する高松商を4-0で降し、前年からの夏春連覇を達成する[7]。同年夏の選手権にも出場。準決勝で、これまで甲子園で2勝している因縁の浪商と対決、柴田と尾崎行雄との投手戦となり、延長11回の熱戦の末2?4で敗退した[6]。浪商はこの大会で優勝を飾っている。プロ入りした高校同期に三塁手の是久幸彦、中堅手の的場祐剛(大洋)がおり、後に法大監督をつとめる五明公男も右翼手として出場していた。また1年後輩には後に日本人初のメジャーリーガーとなる村上雅則がいた。投手としては直球と小さいカーブがレパートリーだった[8]。 1961年10月19日に投手として読売ジャイアンツに入団。1年目の開幕から一軍に抜擢され、開幕第2戦に先発。しかし、肩の痛みを抱えていたこともあってか[9]、阪神タイガースの村山実と投げ合うが5回途中までに4点を失い降板、敗戦投手となる。
経歴
プロ入りまで
現役時代