柴田侑宏
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宝塚クリエイティブアーツ『歌劇 = Takarazuka revue. 』第491号(1966)より、左より岡田敬二小原弘亘、柴田侑宏、酒井澄夫阿古健植田紳爾.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 舞台芸術

柴田 侑宏(しばた ゆきひろ、1932年1月25日 - 2019年7月19日[1][2])は、日本の劇作家・舞台演出家宝塚歌劇団専属として活躍した。兄は映画監督松尾昭典[3]
略歴

大阪府大阪市出身。芝居好きの母に連れられて幼い頃から舞台に親しむ。11歳のときに父が病死[3]、13歳のとき、父の墓参りに訪れた豊橋市で終戦を迎える。戦時中は手に職をつけるために、大阪府立今宮工業学校(現・大阪府立今宮工科高等学校)へ進学[3]

1950年大阪府立高津高等学校を卒業後、関西学院大学文学部美学科に入学。大学卒業後に兄の松尾を頼り上京、劇作を志して東京で脚本を書き溜めていたが、26歳のときに宝塚のテレビドラマの脚本募集を知って応募したところ入選、1958年4月、演出助手として阪急電鉄(宝塚歌劇団)に就職する[3]。入団の際の経緯もあってか、初配属はテレビ製作部で、舞台制作には関われない部署だったが、比較的短期間で歌劇団演出部に異動となり、助手として舞台制作に携わるようになる[4]

助手時代を経て、1961年、『河童とあまっこ』(宝塚新芸劇場)で演出家デビュー。翌1962年、『狐大名』で劇団本拠・宝塚大劇場でも初演出を果たす。精力的にオリジナル作品を執筆・演出する一方、演出家デビュー以後も1973年までは、先輩演出家の作品で演出補として補佐をつとめ、引き続き演出作法を学んだ。助手・演出補時代には白井鐵造高木史朗内海重典など戦前派のベテランをはじめ、一足先に演出家デビューを果たしていた横澤秀雄、菅沼潤たちほぼ同世代の先輩の補佐にもあたり、研鑽を積んでいる。

若手演出家時代の1967年に結婚、英子夫人は芸名・珠梨英で、宝塚歌劇団卒業生49期生、1963年?67年在籍)。

若手演出家時代は劇団方針から日本物の芝居制作に専念、1968年以降、毎年本公演[注 1] に作品を送り出しており、やがて洋物(外国を舞台とした作品)進出も許可され、初めて自作の洋物演出に携わった1972年以後は、30年以上にわたって和洋にわたる幅広い作品を発表する[注 2]

1976年にはオリジナル新作『あかねさす紫の花』『星影の人』『バレンシアの熱い花』3作品を1年のうちに発表するなど、歌劇団の中軸演出家の一人として長く活躍。また1976年には『フィレンツェに燃える』にて昭和50年度芸術選奨新人賞を受賞。1981年には、同歌劇団理事(理事職に就けば歌劇団での事実上の終身雇用が可能に)に就任。

充実した活動の一方、80年代初め頃から眼病に見舞われ、視力低下、視野狭窄など症状は深刻化、90年代初頭までには複数の専門医から、いずれは失明する旨の宣告を受けていたという。1993年以降は口述筆記にて脚本を執筆する[5]。病の影響で演出活動の続行も困難となり、1998年上演の『黒い瞳』以降は、柴田が新作を手がける際に、柴田が脚本を執筆し、演出を後輩など他の担当者に任せる分業体制の導入に踏み切り、演出家としては事実上一線を退く(自作の再演の際には、引き続き演出家として名前を残しており、後輩演出家との共同演出の体裁をとっていた)。その後は劇団専属作家としての仕事にほぼ専念、2001年から2005年まで毎年新作を執筆して本公演に送り出し、劇作家としての健在ぶりを示した。

1970年代から2000年代までの幅広い年代・作品の多くが再演されており、歌劇団の財産となっている。2001年から同歌劇団顧問。2005年から2011年まで宝塚音楽学校のカリキュラム編成アドバイザー(演劇部門)を務めた。2005年の『霧のミラノ』以降は、翌2006年?2013年まで毎年全国ツアー公演等で再演された過去作品の推敲にほぼ専念する。2007年以降はスタッフ欄の表記上も演出家欄から名前を外し、演出家としては引退した[注 3]

新作執筆の筆をしばらく置いていたことなどから、本公演との関わりも薄れ(2007年・10年・11年には本公演でも柴田作品を再演)、2014年は約46年ぶりに歌劇団の年間全公演を通して柴田作品が上演されない年となったが、同年久々に本公演のため新作を書き下ろし、翌2015年2月に10年ぶりとなるオリジナル新作『黒豹の如く』を上演、この83歳で果たした新作上演が生涯最後の新作となった。

2014年4月、歌劇団創立100周年を記念して開設された「宝塚歌劇の殿堂」(宝塚大劇場内)に殿堂入りを果たした[6][7][注 4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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