柴田 亜美
本名同じ
生誕 (1967-05-24) 1967年5月24日(57歳)
日本・長崎県
国籍 日本
職業漫画家・画家
活動期間1984年 - 1985年、1990年 -
ジャンル少年漫画、児童漫画、少女漫画
エッセイ漫画
代表作『南国少年パプワくん』
『ジバクくん』
『PAPUWA』
『カミヨミ』
公式サイト柴田亜美公式サイト【かげろうの墓】
柴田亜美
YouTube
チャンネル
柴田亜美のアーミンワールド
活動期間2020年 -
ジャンルエンターテイメント
登録者数2.58万人
総再生回数791,668回
チャンネル登録者数・総再生回数は
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柴田 亜美(しばた あみ、1967年5月24日 - )は、日本の女性漫画家・画家である。 1967年、長崎県生まれ。長崎大学教育学部附属小学校、長崎大学教育学部附属中学校、長崎県立長崎西高等学校、武蔵野美術大学短期大学美術科専攻科を卒業。 1990年、会社員時代に参加したエニックス(当時。現・スクウェア・エニックス)の『ドラゴンクエスト4コママンガ劇場』にて人気を集める。1991年より月刊少年ガンガンにて『南国少年パプワくん』を連載開始、アニメ化されるなどのヒット作となる。以降、エニックス(現スクウェア・エニックス)や集英社など、多数の雑誌に連載を持つ。 漫画家として活動する一方で美容方面にも興味を持ち始め、2012年2月19日より美容ブログ『女漫画家の極限美容!』を開設。2016年12月には、プライベート美容サロン『ボディオートクチュール ami』開店。(その後、2018年9月30日をもって、『ボディオートクチュール ami』閉店。) 2020年ごろから画家としての活動を開始。アートイベントや個展で、作品を継続的に発表している[1]。 1969年に父がマサチューセッツ工科大学に研究留学し、それを追う形で1970年に家族で渡米。その後、カナダのモントリオールに移り住む。1972年に家族で帰国。 小学校時代から絵画教室に通っていたが、中学校に入る直前あたりから本格的に漫画を書き始めるようになった。初めて完成させた作品は『邪鬼郎』というタイトルで、『柴田亜美のほん2』で「12-13歳の頃に初めて描いた漫画」として公開されている。 1982年、高校に入学。この頃には油絵の絵画教室に通い始め、1983年からは、美大の予備校(河合塾美術研究所)に通うため上京するようになる。この時期、音楽雑誌『音楽専科』の似顔絵コーナーで入選。1984年に、同誌の別冊であるロック漫画誌『8ビート・ギャグ』に漫画を掲載し商業誌デビュー。『8ビート・ギャグ』には多数の作品を掲載し、志摩あつこらと並び人気を得る。この他にも他社の洋楽雑誌でイラストなどを描いていたが、柴田自身は「コンサートのタダ券ほしさに描いていたため、プロのマンガ家になる気はなかった」と振り返っており、大学に入学する頃には漫画を描くこともなくなった[2]。 1985年、大学に入学する。大学時代の同期には諏訪敦がいる[3][4]。 1987年、同大学の専攻科に編入。1988年に卒業。 1989年、リクルートの関連会社にイラストレーターとして就職。FromAやとらばーゆ等の求人広告のカットを描いていた[5]。 1990年、知人の児嶋都に誘われる形で[6]『ドラゴンクエスト4コママンガ劇場』に執筆を始め、「ニセ勇者」シリーズを執筆して人気を博す。同年6月には「ソードマスター剣王伝説」でエニックスファンタジーコミック大賞奨励賞を受賞。その後、創刊企画時の『月刊少年ガンガン』から執筆依頼が来るものの、当時はまだプロとしてやっていく気はなく断っていたという。しかし、私生活上で嫌なことがありヤケになっていた時に、当時会社があった渋谷の路上でエニックスの編集者から「漫画を描かないか」と声をかけられ、思わず頷いてしまったことからプロになる決意を固めた(この出来事を柴田は「エニックスナンパ事件」と呼んでいる[2])。
来歴
幼少期
学生時代
社会人として
執筆活動の開始
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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