柴又八幡神社古墳
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柴又八幡神社古墳

古墳が所在した柴又八幡神社境内
(社殿下に石室が復元保存)
所在地東京都葛飾区柴又3丁目30-24
柴又八幡神社境内)
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度45分29.80秒 東経139度52分30.17秒 / 北緯35.7582778度 東経139.8750472度 / 35.7582778; 139.8750472座標: 北緯35度45分29.80秒 東経139度52分30.17秒 / 北緯35.7582778度 東経139.8750472度 / 35.7582778; 139.8750472
形状前方後円墳
規模(推定)墳丘長30m
埋葬施設横穴式石室
出土品人骨・刀子・馬具・埴輪須恵器土師器
築造時期6世紀末 - 7世紀初頭
史跡葛飾区指定史跡「柴又八幡神社の古墳石室」
有形文化財出土埴輪(東京都指定文化財)
特記事項墳丘は非現存
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}柴又八幡
神社古墳 東京都内の位置
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柴又八幡神社古墳(しばまたはちまんじんじゃこふん)は、東京都葛飾区柴又にあった古墳。形状は前方後円墳。現在では墳丘は失われているが、石室は葛飾区指定史跡に指定され、出土埴輪は東京都指定有形文化財に指定されている。
概要人物埴輪頭部
(通称「寅さん埴輪」)葛飾区郷土と天文の博物館展示(他画像も同様)。

東京都東部、江戸川右岸の微高地上に築造された古墳である。現在は古墳域の大部分が柴又八幡神社境内に所在し、墳丘がほぼ失われた埋没古墳であるが、石室が社殿下に復元保存されているほか、1990年度(平成2年度)以降の境内の発掘調査で周溝・埴輪等が検出されている[1]

墳形は前方後円形で、前方部を西北西方向に向ける。墳丘表面では円筒埴輪列(朝顔形埴輪含む)・形象埴輪(人物・馬形埴輪)が認められるが、これらは旧下総国一帯に分布する下総型埴輪の特徴を有する。また墳丘周囲には周溝が巡らされるほか、くびれ部では須恵器土師器を用いた祭祀跡が検出されている。埋葬施設は横穴式石室で、石室の石材には房総半島の石が用いられる。昭和期の調査では、人骨のほか刀子・馬具などの副葬品が検出されている。

この柴又八幡神社古墳は、古墳時代後期-終末期6世紀末葉-7世紀初頭頃の築造と推定される[1]。一帯の古墳群では法皇塚古墳千葉県市川市)の下位首長墓に位置づけられる。石室が現存する古墳としては東京都内の低地部で唯一の例であるとともに、人物埴輪・円筒埴輪が良好な状態で多数出土した古墳としては東京都内で唯一の例として重要視される古墳になる[2]

復元石室は1976年昭和51年)に葛飾区指定史跡に指定され[3]、出土埴輪は2011年(平成23年)に東京都指定有形文化財に指定された[2]。現在では石室は社殿下に復元保存されているが、公開は制限されている。また男性人物埴輪像1点は、柴又を舞台にした映画『男はつらいよ』の車寅次郎(渥美清)になぞらえて「寅さん埴輪」としても注目される[1]
遺跡歴

江戸時代

寛永10年(1633年)銘の柴又八幡神社棟札あり(同年以前に神社創建)[1]

新編武蔵風土記稿』「柴又村」に八幡社の記載[1]


1932年昭和7年)、神社社殿改築(石室石組の露出か)[1]

1938年(昭和13年)、村高擔風が石室石組とともに神宝の土器2・円筒埴輪1の紹介(『風致』3巻3号、石室石組の初見)[1]

1953年(昭和28年)、可児弘明が「柴又八幡神社内古墳」として初めての学会紹介(『貝塚』48号)[1]

1965年(昭和40年)、神社社殿改築に伴う調査。石室の調査、人骨・副葬品の出土(永峯光一、1970年に報告書刊行)[1]

1976年(昭和51年)3月6日、石室が葛飾区指定史跡に指定[3]

1990年度(平成2年度)以降、学術調査(葛飾区郷土と天文の博物館・葛飾考古学クラブ)[1]

1991年2月、地中レーダー探査。3月、第1次調査(1992年に報告書刊行)。

1998-2002年度、第2-6次調査(199920002001・2002・2003年に報告書刊行)。

2001年8月4日(渥美清の命日)、「寅さん埴輪」の出土。


2011年(平成23年)6月9日、出土埴輪が東京都指定有形文化財に指定[2]

構造

現在では墳丘はほぼ失われているが、神社境内の発掘調査で墳丘周囲に巡らされた周溝が確認されており、おおよその墳形が推定されている。周溝は社殿の北・東・西側で確認され、東側から北側にかけては弧状に巡るが北西方向にはさらに延びることから、社殿付近を後円部、北西方向を前方部とする前方後円墳と推定される。前方部の墳端は境外の道路にあたるため明らかでないが、墳丘長30メートル程度(帆立貝形古墳であれば25メートル程度)、後円部直径約15メートル、くびれ部幅約8メートルと見積もられる[1]

周溝は東側で幅4メートル、北側で幅6メートル・深さ2.2メートル(社殿側からの比高)または0.5-0.6メートル(周溝外側からの比高)、西側で幅1.5メートル・深さ0.3-0.5メートルを測る。周溝は地山の自然堆積土を掘り込み、墳丘土(褐色系シルトを主体)には周溝掘削土や周辺の土が使用される。また墳丘上では円筒埴輪列(朝顔形埴輪含む)・形象埴輪(人物・馬形埴輪)が検出されている。埴輪は狭い箇所では10センチメートル間隔、部分的には20-30センチメートル間隔で並び、布掘りによる埋設と見られる[1]

社殿西側の墳丘くびれ部では、埴輪列内側の墳丘上で須恵器土師器が集中的に出土しており(遺物集中区)、祭祀跡と推測される。遺物集中区の遺物には、6世紀末-7世紀初頭頃の1群と7世紀前半頃の1群があり、古墳構築時の祭祀とは別に構築後しばらく経ってからも祭祀が行われた様子が示唆される(追葬を反映か)[1]
埋葬施設

埋葬施設としては横穴式石室が構築されている。現在は社殿下に石室石材が復元保存されているほか、発掘調査においても石材と見られる磯石が検出されている。石室の石材について、1965年(昭和40年)調査では三浦半島基部の凝灰質砂岩(伊豆石)と推定されているが、近年の調査では房総半島の火山砕屑岩類とされる。


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