柴原洋
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元プロ野球選手の「柴原浩」とは別人です。

柴原 洋現役時代の柴原(2009年9月5日)
基本情報
国籍 日本
出身地福岡県北九州市小倉北区
生年月日 (1974-05-23) 1974年5月23日(49歳)
身長
体重174 cm
75 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手
プロ入り1996年 ドラフト3位
初出場1997年4月5日
最終出場2011年10月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


福岡県立北九州高等学校

九州共立大学

福岡ダイエーホークス
福岡ソフトバンクホークス
(1997 - 2011)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

柴原 洋(しばはら ひろし、1974年5月23日 - )は、福岡県北九州市小倉北区出身の元プロ野球選手外野手、左投左打)、野球解説者[1]、野球評論家。九州共立大学特別客員講師。北九州市スポーツ大使[2]芸能事務所パインズと業務提携[3]
経歴
プロ入り前

北九州高校時代は「4番・エース」として、3年春の九州大会でベスト8の成績を残した。その後、九州共立大学に進学と同時に野手転向。福岡六大学首位打者を4回、本塁打王を3回、打点王を4回、MVPを2回、ベストナイン6回をそれぞれ獲得。リーグ戦通算成績は85試合出場、330打数137安打。打率.415、21本塁打、96打点。4年春の大学選手権では決勝で井口忠仁(ダイエー同期入団)が主将の青学大と対戦し、準優勝。大学では同じ外野手の1年先輩に大野倫(巨人)がいた。「福六のイチロー」と称されることもあった。3年秋には三冠王に輝いた。1996年のドラフト3位で福岡ダイエーホークスに入団[1]。当時の背番号は31。高い評価を受けており、ドラフト前には星野仙一監督の中日が2位での指名を検討したが本人が地元のホークスを強く希望していたため断念した[4]。尚、ダイエーに指名されなかった場合はローソン硬式野球部[5]に入部することを公言していた。
プロ入り後

1997年、新人選手の中で唯一開幕一軍を勝ち取る。しかし本塁打へ過度にこだわった事が災いして結果を残せなかった[1]。これを1998年には捨て、確実性のある打撃へ切り替えた。開幕こそ二軍だったが、新助っ人ライアン・トンプソンの怪我をきっかけに起用され、黒江透修助監督が掲げたきめ細かな野球の方針にも合い、中堅手のレギュラーを獲得した[1]。この年、打率.314、18盗塁ベストナインに選ばれる。

1999年、打率を落としたものの試合数を増やし、22盗塁を記録。8月19日の対オリックス戦(福岡ドーム)で延長11回二死一、二塁の打席で徳元敏から逆転サヨナラ3点本塁打を放つ[6]など、福岡ダイエーホークス初のリーグ優勝・日本一にレギュラーとして貢献。

2000年、リードオフマンに定着し、プロ入り初めて135試合フル出場し打率.310を記録[1]。5月27日の対オリックス戦(福岡ドーム)では9-9の同点の9回二死一、三塁の打席で杉本友からサヨナラ安打[7]、7月30日の対オリックス戦(グリーンスタジアム神戸)では7回二死満塁の打席で木田優夫から自身初の満塁本塁打を放つ[8]など、リーグ2連覇に貢献し2度目のベストナイン、初のゴールデングラブ賞に選ばれる。

2001年、4月29日の対近鉄戦で日本プロ野球タイ記録となる1試合4二塁打[9]。最終的に2年連続の打率3割(.302)、両リーグトップの刺殺補殺数を記録し、2年連続でゴールデングラブ賞に選ばれる[1]

2002年、調子を落とし打率.269に終わり、2年連続の100三振を記録する。

2003年、脇腹痛で開幕に間に合わず、1番・中堅手には打撃改造で復活した村松有人が定着していたため、8番・右翼手に回る[1]。しかし腐ることなく存在感を発揮し、8月には骨折した村松に替わって1番に復帰[1]。自己最高の打率.333、53打点を記録。ダイハード打線の脇を固め、リーグ優勝、日本一に貢献。3度目のゴールデングラブ賞に選ばれた。

2004年秋山幸二(2002年に引退)の背番号を1を受け継ぐ。また村松がオリックスへ移籍した事もあり1番・中堅手として期待されたが、打撃の低迷や故障などもあり99試合の出場に終わった。西武とのプレーオフ第2ステージ第5戦ではチームは敗れてリーグ連覇を逃したものの、1点ビハインドの9回裏に1死3塁のチャンスで豊田清から一時は同点となる適時打を放った。

2005年、開幕戦で7回裏にカルロス・ミラバルから逆転決勝3ラン本塁打を放ち、これが福岡ソフトバンクホークス第1号本塁打となった[1]。自らの故障や宮地克彦の活躍もあり、わずか59試合の出場に終わる。

2006年、開幕スタメンは逃したものの、代打として結果を残し4月からはレギュラーに。序盤は好調だったものの、6月から8月まで打率2割そこそこと完全復活とまでは至らなかった。2003年以来となる100試合以上出場、100安打を記録(打率.277)。また通算1000試合出場を達成。FA権も取得したが、行使せずに残留することを表明した。

2007年、2年ぶりに開幕から6番・右翼手でスタメン出場を果たす。春先は打率.220前後にとどまるものの、サヨナラ本塁打を放つなど勝負強い打撃を見せつけ、交流戦にかけては一時打率リーグトップ10にも入った。後半戦は不調な期間もあったが、持ち前の強肩でサヨナラ阻止などの守備での活躍も数多く見せた。4年ぶりに規定打席に到達し、117安打(打率.273)6本塁打40打点。同シーズンはフォームやバットの試行錯誤がかなり見られた。シーズン終了後FA権を保持していたが、行使せずに残留することを表明した。

2008年、開幕の対楽天戦でドミンゴ・グスマンから逆転サヨナラ3点本塁打を放ち、久米勇紀に「新人開幕勝利」をもたらした。


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