柴五郎
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生誕1860年6月21日万延元年5月3日
江戸幕府会津藩陸奥国
死没 (1945-12-13) 1945年12月13日(85歳没)
日本会津若松市
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1873年 - 1930年
最終階級 陸軍大将
除隊後稚松会会長[1]
墓所恵倫寺
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柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日万延元年5月3日〉 - 1945年昭和20年〉12月13日)は、日本陸軍軍人第12師団長・東京衛戍総督台湾軍司令官・軍事参議官を歴任した。階級は陸軍大将。栄典は従二位勲一等功二級柴四朗(東海散士)は兄。陸士旧3期。
経歴少年時代の柴を庇護した野田豁通。野田の娘は柴とは同藩出身の西義一に嫁ぎ、野田の甥石光真清の長男である石光真人は柴の遺書を編纂し、『ある明治人の記録』として出版した。

万延元年に会津藩の上士(280石)である柴佐多蔵の五男として生まれた[2]会津戦争の籠城戦前に祖母・母・兄嫁・姉妹は自刃した。自刃前に親戚に預けられた五郎は親戚の山荘で隠れていたが、兄たちや父親と再会する。戦後は会津藩の武士階級は旧会津藩から移住することが決まり、藩主と同じ陸奥国斗南青森県むつ市)への移住を選ぶ。共に会津藩出身の森雅守少佐(イタリアにて発狂死)は斗南時代から行動を共にした陸士旧3期同期生である。藩校日新館青森県庁給仕を経て、1873年(明治6年)3月、陸軍幼年学校入校。
陸軍軍人

1877年(明治10年)5月、陸軍士官学校に進む。1879年(明治12年)12月、陸軍砲兵少尉に任官され、翌年12月に士官学校旧3期を卒業する。士官生徒第3期の柴の同期には、上原勇作元帥内山小二郎秋山好古本郷房太郎大将がいる。陸士旧3期の中将、大将の多くが柴、内山の名を友人として挙げている。陸士旧3期のリーダー格は上原勇作であったが、人間関係の輪の中心には内山、柴の両名がいたことは間違いない。個性が強く異なる人物たちと共通の友人であったことは稀有なことである。

卒業後の1881年(明治14年)7月、大阪鎮台山砲兵第4大隊小隊長に就任。1883年(明治16年)2月には近衛砲兵大隊小隊長に移る。1884年(明治17年)6月の参謀本部出仕を経て同年7月に陸軍中尉に進級し、同年10月には清国差遣を命ぜられ福州北京に駐在する。

1888年(明治21年)5月、近衛砲兵連隊小隊長に就き、翌年3月陸軍砲兵射的学校を卒業する。11月、陸軍大尉に進級し、近衛砲兵連隊中隊長に進む。


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