この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "柳田聖山"
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}柳田 聖山(やなぎだ せいざん)人物情報
生誕 (1922-12-19) 1922年12月19日
日本・滋賀県彦根市
死没 (2006-11-08) 2006年11月8日(83歳没)
配偶者柳田宗葩(茶道家)
学問
研究分野仏教学・思想史(禅宗史)
研究機関花園大学、京都大学人文科学研究所
称号勲三等瑞宝章
学会日本印度学仏教学会
主な受賞歴勲三等瑞宝章
テンプレートを表示
柳田 聖山(やなぎだ せいざん、旧姓:横井(よこい)、1922年12月19日 - 2006年11月8日)は、日本の中国禅宗史研究者。多くの著作がある。 1922年、滋賀県愛知郡稲枝村(現在の彦根市)の延寿寺(臨済宗)に生まれた[1]。寺名の延寿寺は、宋朝文化を代表する五山の一つ杭州西湖の霊隠寺で、宗鏡録を書き上げた高徳、永明延寿の名に基づく[2]。1940年滋賀県立彦根中学校を卒業。 臨済学院専門学校(現:花園大学)、大谷大学[1]を卒業し、永源寺僧堂で修行する。京都大学文学部聴講生となって学び、久松真一に師事してFAS禅運動に共鳴。中国禅宗史研究において批判的資料研究を進め、資料が史実ではなく、その時代の要請によって創作されたことを見抜いた。 1949年、花園大学仏教学部の助手となる。1950年より講師、1954年より助教授、1960年に教授に昇格[1]。1968年からは文学部長を務めた。1950年に柳田姓に改姓。1976年に京都大学人文科学研究所教授に就任[1]。1985年には同所長に就任する。1986年、所長を定年退官して名誉教授となった。退任後は中部大学教授を務めた。1988年からは花園大学文学部教授となり、花園大学国際禅学研究所長も務めた。1993年には自宅を禅学研究所へ寄贈し、「柴門館」となった。1996年に所長を退任し、没時まで終身研究所員であった。 また市民活動にも理解を示し、1992年には市民団体「環境市民」の共同代表となった。また、1990年には峨眉山に良寛詩碑を建立している。2006年11月8日に死去。墓所は生家の延寿寺にある[3]。
経歴
出生から学生時代
戦後
受賞・受勲
1962年 日本印度学仏教学会賞
1981年 第32回読売文学賞『一休?狂雲集の世界』[1]