柳生宗冬
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 凡例柳生宗冬
時代江戸時代前期
生誕慶長18年(1613年
死没延宝3年9月29日1675年11月16日)
改名主膳(幼名)、宗冬
別名俊矩、心計、柳陰
戒名常林院殿前飛州太守決厳公大居士
墓所広徳寺芳徳寺
官位従五位下、飛騨守
幕府江戸幕府小姓書院番
主君徳川家光徳川家綱
氏族柳生氏
父母父:柳生宗矩、母:おりん(松下之綱の娘)
兄弟三厳友矩、宗冬、列堂義仙
妻京極主膳正高通の娘
宗春宗在、娘(小出尹重室)、娘(朽木則綱正室)、娘(曽我近祐室)
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柳生 宗冬(やぎゅう むねふゆ)は、江戸時代前期の武士新陰流剣豪幼名は主膳、は宗冬。通称は内膳正、俊矩[注 1]

大和国柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南を務めた剣豪・柳生宗矩の子。家督を継承した兄三厳が急死したため、その跡を継ぎ、将軍家兵法指南役に任じられて徳川家綱徳川綱吉らに新陰流を伝授した。これらの功により加増を重ね、父の死後旗本となっていた柳生家を大名に復帰させた。
生涯
少年時

慶長18年[注 2]1613年大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)にて、領主・柳生宗矩の三男として誕生する。芳徳寺境内にある柳生一族の墓所。右が宗冬の墓

寛永5年(1628年)、14歳の時に徳川3代将軍・徳川家光の小姓となり、やがて書院番に任じられて300石を拝領する。

病弱であったために少年時代は稽古を嫌うところがあったというが、寛永9年(1632年)、18歳の時に喜多十太夫申楽能の入神の芸を見て感じ入るものがあって日夜兵法に精進するようになり[2]、寛永16年(1639年)には、将軍・家光の兵法上覧に、剣豪として知られる長兄・柳生十兵衛や父の代表的な高弟木村友重(助九郎)と並んで抜擢されるまでになった[4]
家督相続

正保3年(1646年)、父・宗矩が死去すると、その遺言によって遺領1万2千500石を兄・三厳との間で分け与えられ[注 3]、宗冬は4千石を相続して柳生家から分家した[5]。この時家督を継いだ三厳の石高が1万石を下回ったために、柳生家は宗矩が柳生藩を立藩して以来11年目にして大名から旗本の地位に戻った。また将軍・家光は既に宗矩より新陰流の印可を受けていたこともあり、宗矩の死後改めて師を持つことはなかった。

父の死から4年後の 慶安3年(1650年)に兄・三厳が急死する。三厳には嗣子がいなかったものの、亡き宗矩の勤功を理由に取り潰しは避けるよう取り図られ、宗冬は4千石を返上した上で兄の遺領を継ぎ、柳生家当主となった[注 4]

翌慶安4年(1651年)1月に将軍家光が病に倒れると、武芸好きの将軍を慰撫するため諸国の武芸の達人が江戸城に集められ、3カ月間にわたって家光の御前で武芸を披露する上覧会が開かれた。宗冬はこの期間中、2月11日と2月29日に家光に謁見し、3月2日および上覧最終日となった4月14日には、家光や諸大名の前で武芸を披露している[注 5]。その6日後の4月20日に家光が没すると、跡を継いで4代将軍に就任した徳川家綱に引き続き仕えた。
将軍家指南役就任

家光の死から5年後の明暦2年(1656年)、宗冬に対し16歳になった将軍家綱へ新陰流を伝授するよう命が下り、名実ともに父・宗矩の死後空席となっていた将軍家兵法指南役となる[8]。家綱は病弱で生涯病に臥せがちであったが、宗冬の指導の下、剣術を愛好すること甚だしく熱心に稽古を重ねるようになった[注 6]

明暦3年(1657年)1月3日、家綱より召されて剣術始めの儀を取り行い[4]、これ以降家綱時代の恒例行事となった[9]。同年12月に従五位下飛騨守に任じられ、寛文元年(1661年)には、館林宰相(後の5代将軍)徳川綱吉からも入門の誓紙を受けて指南するようになる。

寛文4年(1664年)家綱より正式に新陰流入門の誓紙を受け、翌寛文5年(1665年)に印可を与えた。同年1月3日の剣術始めの儀では、16歳となった嫡男・宗春も共に家綱の相手を務め、これ以後家綱の稽古の際には常に宗春も相伴するようになった[9]

寛文8年(1668年[10]、大和国山辺郡1700石の加増により総石高1万石となり、父の死から22年ぶりに柳生家は大名に復帰した。

嫡男の宗春が成長すると、虎ノ門本邸での門人の指導は宗春に任せ、自らは新堀の別邸で指導を行うようになる。宗春は長者として慕われ、虎ノ門には多くの門人が集ったというが、延宝3年(1675年)1月に突如疱瘡にかかり、同年2月に26歳で没した。[11]
最期

嫡男・宗春の死から3か月後の延宝3年(1675年)4月、病[注 7]に倒れる。

将軍・家綱からは老中久世広之若年寄土井利房らが見舞いに遣わされ[注 8]、治療の限りが尽くされたが、遂に回復することはなく、同年9月29日、いよいよ病が重くなったことを自ら悟ると、次男・宗在や家臣たちを集めて子細を遺言書に書き残し、その晩多くの門弟や親族に見守られる中、この世を去った。享年61。

遺体は遺言に基づいて火葬され、江戸の広徳寺に埋葬された。また、故郷である柳生庄にも分骨され、末弟・列堂が住持を務める芳徳寺に墓所が建てられた[2]
逸話
史料上の逸話

三厳の死により家督を継いだ際、家光の命で、兄の遺児である2人の娘を宗冬が養育することとなり、それぞれ旗本の元に嫁ぐまで育て上げている。
[6]

早世した異母兄・友矩と親交が深く、著書『宗冬兵法聞書』では「兄左門(友矩)云う」として新陰流の様々な術理について友矩の見解を書き留めている。友矩が27歳で[12]死去した後には友矩の居館を一寺とし、遺領の南大河原に十輪寺を建立してその菩提を弔っている[13]

晩年は池辺を逍遥し、池水に浮沈するボウフラの動きをみて兵術悟道のヒントを得、画師にその絵を描かせ、それにちなんで柳陰とも号した(『玉栄拾遺』)[2]

宗冬が残した遺書は全11条にわたり、遺族や藩士や流儀の門弟、小者の末にいたるまで生き届いた心遣いを記している。一方で、当時芳徳寺の住持を務めながら寺を留守にしがちであった末弟の列堂に対しては厳しく接しており、寺に押し込めるか、反抗するようなら殺してしまうようにと書き遺している[14]。 

1927年6月16日に広徳寺で行われた区画整理による墓地の改装の際に、小野玄入の作と推測される世界最古(発見当時)の黄楊製木製総義歯が発見された[15][16]

真偽不明の逸話

3代将軍家光の命で父・宗矩と立ち合って一本を取られ、「竹刀がもう少し長ければ勝てたのに」と口にしたため、今度は長い竹刀を持って再度父と立ち合うことになったが、面を撃たれて昏倒した(『明良洪範』)
[17]


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