柳生厳包
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 凡例柳生厳包
時代江戸時代前期
生誕寛永2年(1625年
死没元禄7年10月11日1694年11月27日
別名新六、兵助、兵庫(通称)、連也斎、浦連也
戒名寒松院貞操連也居士
墓所白林寺
幕府江戸幕府
主君徳川義直徳川光友
尾張藩
氏族柳生氏
父母父:柳生利厳
母:島清興の娘・珠
兄弟清厳、利方 、厳包
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柳生 厳包(やぎゅう としかね、寛永2年(1625年) - 元禄7年10月11日1694年11月27日))は、江戸時代前期の武士、剣術家、尾張藩士。柳生利厳(兵庫助)の子。父の跡を継いで尾張藩剣術指南役を務め、藩主・徳川光友新陰流を伝授した。幼名は新六。初名は厳知。通称は七郎兵衛、兵助、兵庫。隠居後は入道して連也斎または浦連也と号した。著書に『御秘書』、『連翁七箇條』。
略歴
幼少期から出府するまで

寛永2年(1625年)尾張藩剣術指南役柳生利厳(兵庫助)と、そのである島清興(左近)の末娘・珠との間に生まれる。幼少期は父の元を離れて姉の嫁ぎ先である御油の問屋・林五郎衛門のもとで育ち、母の実家の姓である島を名乗った[1]

10歳の時に父の住む名古屋に戻り剣術の修行を始める。厳包は毎日の稽古が終わった後も郎党を集め、自分を打ち込んだ者には褒章を与えると宣言して打ち合いに励んだ。時に腕の痛みで帯を結ぶこともできず母・珠に頼むこともあり、珠は「これでこそ剣術の上手になれるでしょう」と涙を流して厳包を手伝ったという[1]。その才能は早くから表れ、弱冠13歳の時に父・利厳から習った口述をまとめた武芸書(通称『御秘書』)を残している。

寛永19年(1642年)18歳の頃、次期藩主・光友の剣術指南役を務める兄・利方の推薦を受け、光友に御目見を果たす。厳包が江戸に到着すると、その日の内に光友は厳包に柳生流と一刀流の剣士30名と試合するように命じ、厳包はことごとくこれを打ち破ったという[1]。厳包はそのまま江戸詰め御通番となり、はじめ40石、その後間もなく加増を受けて70石を拝領した[2]
道統の継承

慶安元年(1648年)、24歳の時、父・利厳が隠居すると、家督を継いだ兄・利方に代わって厳包が光友の指南役となる。これ以降厳包は「制外物の御奉公人」として他の役目を解かれ、剣術に専念することを許されたという[1]。翌慶安2年(1649年)、利方立ち合いの元、利厳から一切の相伝免許を受けて道統を継ぎ[3]、さらに翌年に利厳が死去すると、父の隠居領3百石と居屋敷を譲られた。

同年6月、藩主・義直が没してその跡を光友が継ぐとその恩寵はますます厚く、やがて2度の加増を受けて総石高6百石となった[2]。厳包の門下からは藩中に名を知られる剣士も多く輩出し、その名声は兄・利方を凌ぐほどであったという[4]。一方で厳包との不和で一門を去る者もおり、中には自流を開いた者や円明流に転じて多くの門人を育てた高弟もいた(『昔咄』)。
慶安武芸上覧

慶安4年(1651年)厳包と利方の兄弟は、病に倒れた将軍徳川家光に武芸を披露するため、諸藩を代表する武芸の達人等と共に江戸に召集された。この時幕府の閣老から尾張藩御附家老成瀬隼人正に宛てた書状が『徳川実紀』に引用されており「(家光が)柳生伊代(利厳)子供の兵法上覧成され度候旨、仰せ出され候間、当地差越候様に相達せらるべく候」と、兄弟の兵法を上覧することは家光直々の望みであることが記されている[3]

厳包と利方は2日間にわたって武芸を披露し、4月5日に燕飛、三学、九箇、小太刀、無刀、小太刀を、翌6日には小太刀、無刀、相寸等の勢法(型)を演じた[注 1]。2人の武芸を見た家光は大いに機嫌を良くし、兄弟に時服と銀2枚を与えた。その様子はただちに2人の主君・光友に伝えられており、徳川頼宣による「柳生兵庫子共、兵法、御らんなされ候間、 弥々、御機嫌能く、御座候故と、目出度存ずる事に候」と記された書状が現存している。この時演じられた勢法(型)の中でも燕飛は出色であり、後々まで「古今無類、面白き事なりしぞ」と賞されたと『昔咄』は記している[1]
晩年

寛文8年(1668年)、44歳の時、主君に隠居を願ったが許されず、6百石を返上して御蔵米2百石を給された。貞享2年(1685年)、61歳の時にようやく隠居を許されて剃髪し、連也斎または浦連也と号した。隠居後は造園に凝り、城下の邸宅に尾張随一といわれる庭園を造った。その庭園は藩主親子やその夫人もたびたび訪れ、光友の子徳川綱誠は「おれも庭をすくが、連也の物数奇には及ばず」と讃えたという。このほか花は牡丹を愛し、茶入れを好んで瀬戸に焼かせたという[1]

厳包はある時期から女性を近づけず、妻子もいなかった。そのため 元禄7年(1694年)2月、70歳の時に兄利方の子・厳延に印可を相伝して道統を継承させた。同年10月11日に死去。遺言によって遺体は火葬され、遺骨は熱田沖の海上に撒かれた。墓碑はなく、妙心寺内麟祥院に位牌のみが残っている[3]。厳包の死後も尾張柳生家は幕末まで代々御流儀師範として特別の格式を以て遇され、現代に至るまで新陰流を伝えている。
剣術面の影響


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