柳瀬璋
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やなせ あきら柳瀬 璋
生誕 (1933-01-16) 1933年1月16日(90歳)
兵庫県芦屋市
国籍 日本
出身校早稲田大学法学部
職業実業家
テレビディレクター
活動期間1957年 - 2002年
団体毎日放送
肩書き毎日放送代表取締役社長
任期1997年 - 2002年
前任者斎藤守慶
後任者山本雅弘
配偶者柳瀬伸子(妻。2014年3月7日逝去[1]
受賞旭日中綬章
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柳瀬 璋(やなせ あきら 1933年昭和8年)1月16日 - )は、日本のテレビ・ディレクター、毎日放送元社長。
来歴・人物

兵庫県芦屋市出身。1956年早稲田大学法学部卒業。1957年(昭和32年)に大阪テレビ放送へ入社し、翌1958年(昭和33年)、朝日放送との合併に先立ち、1959年(昭和34年)3月1日にテレビ放送を開始する毎日放送へ転籍。

皇太子御成婚パレード、1964年東京オリンピック日本万国博覧会などの報道ディレクターとして活躍、1980年(昭和55年)には現在も続く自社制作ドキュメンタリー枠『映像』の立ち上げにも参加した。「毎日放送#報道・ドキュメンタリー・情報番組」も参照

1985年(昭和60年)にテレビ編成局長、1989年平成元年)取締役選任。1993年(平成5年)には常務取締役、1996年(平成8年)に代表取締役専務となり、第5代社長斎藤守慶の後継者に指名された。
ポスト斎藤体制

1997年(平成9年)6月の株主総会終了後の取締役会で、斎藤から引き継いで毎日放送第6代代表取締役社長に就任した。同時に、斎藤は代表権を持ったまま1989年の高木一見(MBS第4代社長)の退任以来空席となっていた取締役会長に就いた。MBSでは高木の退任後4期8年間会長が空席となり、名実ともに斎藤のワントップ体制となっていた。柳瀬は6期12年に渡り社長に在任した斎藤の経営方針を見直し、将来に向けてのMBSのビジョンを作ることが任務とされた。
テレビ終夜放送化と『あどりぶランド』終了

1998年(平成10年)4月改編では、高木の退任直前にスタートし斎藤時代のMBSを代表する自社制作番組だった『あどりぶランド』を終了させた。テレビの終夜放送化によりアナウンサー全員が同時に出勤する時間が取れなくなったことが最大の理由とされた。詳細は「あどりぶランド」を参照
ラジオの早朝自社制作枠強化

同じ98年4月改編では、ラジオで深夜から早朝にかけて放送されていた『榎さんのおはようさん?!』(TBSラジオからのネット受け番組)が終了している。TBSは後継番組として『生島ヒロシのおはよう一直線』を立ち上げるが、MBSは阪神・淡路大震災当時にテレビ・ラジオともにTBSからのネット受け番組のみで初動の遅れを招いた反省から、長寿番組だった『榎さん』の終了をきっかけに全ワイド番組を自社制作とするべく、『一直線』と『いすゞ歌うヘッドライト?コックピットのあなたへ?』の将来的な企画ネット降格に向けてTBSとの間で調整を行うようになる。詳細は「斎藤守慶#阪神・淡路大震災」および「おはよう川村龍一です#阪神・淡路大震災発災(1995年1月17日)当日の対応」を参照

次の1999年4月改編で、『歌うヘッドライト』がそれまでの2時間枠から午前4時台だけの1時間枠に短縮された[2] のをきっかけに空いた午前3時台を自社枠化、午前2時台に放送されていた『MBSミッドナイトドライブ』を移動させた。詳細は「MBSミッドナイトドライブ#概要」および「いすゞ歌うヘッドライト?コックピットのあなたへ?#概要」を参照

2001年(平成13年)4月改編で『一直線』は企画ネットに降格。これを受け、それまで土曜日だけの放送だった『鋭ちゃんのあさいちラジオ』を帯番組化する。次の10月改編では『おはよう川村龍一です』をそれまでの6時台から5時台に移動。いすゞ自動車の業績悪化を受け終了した『歌うヘッドライト』の後枠も自社制作に切り替えることにし(後継番組となった『あなたへモーニングコール』は、創価学会がスポンサーに付いた事を理由にネット受け拒否。後述)、『ミッドナイトドライブ』が午前4時台にも拡大された。そして2002年(平成14年)4月改編で『早起きラジオMBS』がスタート。ここにラジオ早朝帯に自社制作枠化は完成し、同時にJRN結成以来30年以上に渡って続いたTBS発フルネットのワイド番組が消滅した。詳細は「生島ヒロシのおはよう一直線#ネット局」および「いすゞ歌うヘッドライト?コックピットのあなたへ?」を参照「高橋信三#JRN結成とラジオニュース」も参照
『ヤングタウン』と『アクセス』

1999年(平成11年)10月改編で、テレビではその後21年半続く平日午後の看板番組『ちちんぷいぷい』をスタートさせる。

この改編では、ラジオでは高橋信三社長時代の1968年(昭和43年)から続いていた夜ワイド『MBSヤングタウン』を終了させる方針だった。背景には、若年層リスナーの中波局(AM)から超短波局(FM。FM802FM大阪など)への流出が近畿圏でも激しくなり、それによる『ヤンタン』の固定スポンサーの撤退が相次ぐ流れがあった。折からTBSでは、1998年10月改編で長年続いた若者向け夜ワイドに代わりスタートした『BATTLE TALK RADIO アクセス』がHBCラジオを皮切りに全国ネット開始が決まり、MBSもラジオ報道部が近畿圏での重大ニュースについて制作協力していた。ローカルセールスながらもJRN系全国ネットの報道番組となる『アクセス』はJNN排他協定の絡みでMBSが受けないと近畿圏での放送ができないと言われ[誰によって?]、柳瀬は『ヤンタン』を打ち切ってでも『アクセス』を受けるか、見送るかの選択を迫られた。

しかしMBSには、1960年代の平日午後ワイド番組『オーナー』のネット受けで聴取率が在阪局中最下位に低落した苦い経験があり、『アクセス』を受けて東京からの全編フルネット番組を増やすことに抵抗があった。


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