柳沢吉保
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 凡例柳沢 吉保
絹本著色柳沢吉保像(部分、一蓮寺蔵)
時代江戸時代前期 - 中期
生誕万治元年12月18日1659年1月10日
死没正徳4年11月2日1714年12月8日
改名房安(初名)→佳忠→信本→保明→吉保→保山(法号)
別名十三郎→弥太郎(通称)
戒名永慶寺保山元養
墓所奈良県大和郡山市永慶寺町の永慶寺
山梨県甲州市塩山小屋敷の恵林寺
官位従五位下・出羽守、従四位下、侍従
左近衛少将美濃、贈従三位
幕府江戸幕府小納戸側用人老中格大老格
主君徳川綱吉
上野館林藩士→上総佐貫藩主→武蔵川越藩主→甲斐甲府藩
氏族柳沢氏
父母父:柳沢安忠、母:了本院(佐瀬氏)
妻正室:定子(曽雌定盛の娘)
側室:飯塚染子町子正親町実豊の娘)
吉里、長暢、安基、
経隆時睦米倉忠仰
保経、娘(内藤政森室)、
娘(松平資訓継々室)
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柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす、正字体:柳澤吉保、正仮名遣:やなぎさはよしやす)は、江戸時代前期の幕府側用人譜代大名。第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。王朝文化への憧憬を強く抱いた文化人でもあり、江戸六義園を造営した[1]
生涯
出生から館林藩士時代

柳沢氏は清和源氏の流れを引く河内源氏の支流、甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔を称し[注釈 1]甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆に属した。武田氏の滅亡後、武田遺臣の多くが徳川家康の家臣団に組み込まれ、柳沢氏は吉保の祖父にあたる信俊が家康に仕官した。柳沢氏は土屋氏と並んで、武田遺臣から近世大名化した一族として知られる。

万治元年(1658年)12月18日、吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として江戸市ヶ谷に生まれる[2]。母は安忠の側室である佐瀬氏(了本院)。了本院は安忠の所領がある上総国一袋村の出身で、安忠正室・青木氏の侍女となる[3]。了本院は吉保出産後に実家へ戻ったため、吉保は安忠正室・青木氏のもとで養育されたが、後に吉保は幕臣になってから了本院の存在を知ると江戸に呼び寄せた[3]。吉保は長男ではあったが、父の晩年の庶子であり、柳沢家の家督は吉保の姉婿となっていた従兄の信花(父・安忠の甥)が養嗣子となって継いだ。

寛文4年(1664年)12月18日、館林藩主・徳川綱吉に初めて謁見する[2]。寛文12年(1672年)に甲斐国恵林寺において行われた武田信玄百回忌法要においては、父安忠とともに奉加帳に名を連ねている[2]。同年11月15日には家臣・曽祢貞尅の介錯で半元服を行う[2]。翌寛文13年(1673年)11月15日に元服する[2]

延宝3年(1675年)7月12日には父・安忠の致仕に際して家督を相続し、保明(やすあき)と改名する[2]家禄530[2]。小姓組番衆となり、同年12月18日には旗本・曽雌盛定の娘・定子と婚約する[2]。延宝4年(1676年)2月18日には定子と婚姻する[2]。延宝5年(1677年)には曽雌家の菩提寺である龍興寺の竺道祖梵に参し、公案を授かっている[2]。同年6月16日には安忠正室の青木氏が死去している[2]
綱吉の将軍就任と吉保徳川綱吉

延宝8年(1680年)、館林藩主の綱吉が兄である4代将軍徳川家綱の将軍後継として江戸城に入ると、綱吉の家臣である吉保も幕臣となる[2]。同年11月3日に吉保は小納戸役に任ぜられる[2]

天和元年(1681年)4月25日には300石を加増され、830石となる[2]。同年6月3日に吉保は綱吉の学問上の弟子となり、7月11日には江戸・市ヶ谷から愛宕下に居を移す[2]。同年12月20日には生母の了本院を江戸へ引き取っている。

天和2年(1682年)4月21日には従六位下となり、布衣を許されている[2]。天和3年(1683年)1月11日には200石を加増されて1030石となる[2]。同年6月25日には、義兄の信花が江戸城西の丸前において高橋源大夫と喧嘩し、殺害される事件が起きている[2]


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