柳敬言
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柳皇后
南朝陳の皇后
在位太建元年1月4日 - 太建14年1月21日
569年2月5日 - 582年2月28日

全名柳敬言
出生中大通5年(533年

死去大業11年2月15日
615年3月20日

埋葬洛陽、?山
配偶者宣帝
子女陳叔宝
氏族河東柳氏
父親柳偃
母親長城公主
弟柳?
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柳 敬言(りゅう けいげん)は、南朝陳の宣帝陳?皇后南朝梁の武帝蕭衍の外孫。本貫河東郡解県
経歴

柳偃(柳ツの子)と長城公主(蕭衍の娘)のあいだの娘として生まれた。9歳で家事を切り盛りし、あたかも成人のようであったといわれる。成長すると身長は7尺2寸、手は膝まで垂れた。侯景の乱が起こると、敬言は弟の柳?とともに江陵元帝を頼り、元帝は姪にあたる敬言を厚遇した。陳?が江陵にやってくると、元帝は敬言をとつがせた。承聖2年(553年)、敬言は江陵で陳叔宝を出産した。承聖3年(554年)、江陵が西魏軍によって陥落すると、陳?は関中に連行され、敬言は陳叔宝とともに穣城にとどまった。天嘉2年(561年)、敬言は陳叔宝とともに陳に入り、安成王妃となった。

太建元年(569年)、宣帝(陳?)が即位すると、皇后に立てられた。宣帝は銭貴妃を寵愛したため、敬言に対してはそれに次ぐ扱いであった。太建14年(582年)、宣帝が死去すると、始興王陳叔陵が反乱を起こして陳叔宝を殺害しようとしたが、敬言は乳母の呉氏(楽安君)とともに陳叔宝を救った。後主(陳叔宝)が即位すると、敬言は皇太后となり、弘範宮に起居した。当時、陳は淮南を失陥して軍が長江に迫る国難にあったが、後主は重い瘡病のために聴政できず、敬言が後主に代わって国事を決裁した。後主の瘡病が癒えると、敬言は政権を後主に返還した。

禎明3年(589年)、陳が滅亡すると、敬言は長安に入った。大業11年(615年)、東都洛陽で死去した。享年は83。洛陽の?山に葬られた。
伝記資料

陳書』巻7 列伝第1

南史』巻12 列伝第2










南朝の皇后

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高昭劉皇后* / 武穆裴皇后* / 文安王皇后* / 何皇后(鬱林王) / 王皇后(海陵王) / 明敬劉皇后* / ?皇后(東昏侯) / 王皇后(和帝)

文献張皇后* / 武徳?皇后* / 穆丁太后* / 文宣阮太后* / 簡文簡王皇后* / 張皇后(豫章王) / 王皇后(敬帝) / (後梁)宣静王皇后 / (後梁)張皇后(明帝) / (後梁)蔡皇后(後主)

武宣章皇后 / 沈皇后(文帝) / 廃帝王皇后 / 柳皇后(宣帝) / 沈皇后(後主)
*:追尊皇后・皇太后


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