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柳原 白蓮
(やなぎわら びゃくれん)
筑紫の女王
ペンネーム柳原 白蓮
誕生柳原 Y子(やなぎわら あきこ)
1885年10月15日
日本・東京府麻布桜田町付近(現・東京都港区元麻布及び西麻布)
死没 (1967-02-22) 1967年2月22日(81歳没)
日本・東京都豊島区西池袋
墓地神奈川県相模原市石老山の顕鏡寺
職業歌人
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東洋英和女学校卒業
活動期間1915年 - 1956年
ジャンル和歌、戯曲、小説
代表作『幻の華』『指鬘外道』『地平線』
デビュー作歌集『踏絵』
配偶者北小路資武(1900年-1905年)
伊藤伝右衛門(1911年-1921年)
宮崎龍介(1923年-1967年)
子供3人
北小路功光
宮崎香織
宮崎蕗苳
親族叔母:柳原愛子(大正天皇生母)
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柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年〈明治18年〉10月15日 - 1967年〈昭和42年〉2月22日)は、大正から昭和時代にかけての歌人。本名は宮崎Y子(みやざきあきこ)、旧姓:柳原(やなぎわら[1])、北小路(きたこうじ)、伊藤(いとう)。大正三美人の一人。白蓮事件で知られる。
父は柳原前光伯爵。大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。 東京に生まれた。父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから「Y子」と名付けられる。母の奥津りょうは没落した新見正興の娘で[注釈 1]、前光の妾のひとりで柳橋の芸妓であった。Y子は生後7日目に柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍される。前光の本邸には側室の「梅」(元は柳原愛子の侍女)がおり、子のない梅はY子の引き取りを願っていたが、正妻の初子がそれを阻止すべくY子を自分の手元に引き取ったという。生母・りょうは1888年(明治21年)、Y子3歳の時に病死している。 初子を母と定められて間もなく、当時の華族の慣習として品川の種物問屋を営む家に里子に出され、乳母の増山くにと里親家族の愛情の元、下町の自然豊かな環境で育てられる。学齢となった6歳の時に柳原家に戻り、初子に華族の娘としてしつけられる。1892年(明治25年)、麻布南山小学校に入学する。 1894年(明治27年)、9歳で遠縁にあたる子爵・北小路随光(きたこうじ よりみつ)(1832?1916)の養女となり、小学校も転校となる。北小路家は夫婦の間の子がいずれも早世したため、父・前光の弟が養子となっていたが、隨光が女中に男子(資武・すけたけ)を生ませたことから養子関係が解消となり、その代わりにY子を資武の妻にする条件での養子縁組であった。同年に父・前光が死去し、異母兄の義光が柳原家の家督を継ぐ。 北小路家で養父の隨光により和歌の手ほどきを受ける。
生涯※年齢表記は満年齢で記す。
生い立ち
最初の結婚と離婚北小路家時代、16歳のY子