この項目では、大正天皇の生母について記述しています。平成の歌手・声優の同名の人物については「柳原愛子 (歌手)」をご覧ください。
柳原 愛子
出生1855年5月31日(安政2年4月16日)?
死去 (1943-10-16) 1943年10月16日(88歳没)
東京府
東京市四谷区
信濃町
埋葬祐天寺
配偶者明治天皇
子女
梅宮薫子内親王(明治天皇第2皇女)
建宮敬仁親王(明治天皇第2皇子)
大正天皇(明治天皇第3皇子)
父親柳原光愛
母親長谷川歌野[1]
役職掌侍→権典侍→典侍
宗教神道、法華宗[2]
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柳原 愛子(やなぎわら なるこ[3]、1855年5月31日〈安政2年4月16日〉[4]または同年6月1日〈4月17日〉[5][注釈 1] - 1943年〈昭和18年〉10月16日)は、明治天皇の側室で、大正天皇の生母。幕末の議奏・柳原光愛の次女で、伯爵柳原前光の妹。「筑紫の女王」と呼ばれた柳原白蓮は姪にあたる。
位階の正二位をもって二位局(にいのつぼね)と呼ばれた。女房名は梅ノ井(うめのい)、早蕨典侍(さわらびてんじ)や早蕨局(さわらびのつぼね)など。 1870年(明治3年)、皇太后宮小上臈として出仕して英照皇太后に仕えた[1]。同年6月、掌侍(勾当内侍)となって従五位に叙された[1]。1872年(明治5年)に中山慶子の推挙によって明治天皇の御所に出仕し、翌1873年(明治6年)2月に権典侍となった[1]。同年5月に、正五位[1]。 容貌秀麗かつ賢婦人であり[7]、明治天皇の後宮で寵愛を受け、第二皇女・薫子内親王、第二皇子・敬仁親王、第三皇子・嘉仁親王を出産したが、のちに大正天皇となる嘉仁親王のみが成人できた。 明治時代には、計3回、歌会始で詠進歌が選歌に入った。 「朝日かげ つばさにうけて まふ鶴は くもらぬ御代を 空にしるらむ」 ?柳原愛子(明治17年歌会始「晴天鶴」[8]より) 「池水に うつろふ影は 緑にて 松の葉しろく 雪ふりにけり」 ?柳原愛子(明治21年歌会始「雪埋松」[8]より) 「大空は 霜くもりして 咲く梅の 花のみ白し ありあけの月」 ?柳原愛子(明治44年歌会始「寒月照梅花」[8]より) 九条節子(のちの貞明皇后)が皇太子妃に決定し、6人の典侍がその教育係となるが、柳原愛子もその一人として、厳格でありながら柔和な人柄で後見した[9]。 1902年(明治35年)に典侍に任官。1911年(明治44年)の皇后の還暦を祝う式典では、典侍として高倉寿子とともに女官の筆頭を務めた。高倉寿子は皇后の入内に際してその補導役として実家から供をしてきた腹心と言える存在であり、明治天皇の御側女官たちを管理する役割も担っていた[10]。 また同年、皇太子妃節子が腸チフスのため葉山御用邸で療養すると、愛子も付き従い、節子が重篤となると自ら水垢離をし、法華経を唱えて快癒を祈念した[11]。
生涯