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凡例柳原 前光
時代江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕嘉永3年3月23日(1850年5月4日)
死没明治27年(1894年)9月2日
改名次良麿(幼名)→前光
戒名俊徳院殿頴誉巍寂大居士
墓所東京都目黒区中目黒の祐天寺
官位正二位、勲一等、伯爵
主君明治天皇
氏族柳原家
父母父:柳原光愛、母:長谷川歌野(長谷川雪顕
柳原 前光(やなぎわら さきみつ[1])は、幕末から明治時代にかけての公家。華族。伯爵。柳原家第22代当主。大正天皇の伯父。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では18歳で東海道鎮撫副総督となる。同年3月には旧幕府領であった甲斐国へ入国し、甲府城で職制を定め、11月まで城代を廃し甲府鎮撫使を務めている。明治維新後は外務省に入省、明治4年(1871年)に外務大丞として大蔵卿・伊達宗城と共に清へ渡り李鴻章との間で日清修好条規を締結する。西南戦争では勅使として鹿児島入りし島津忠義・珍彦と会見している。 その後元老院議官となり刑法・治罪法審議に従事し、駐露公使・賞勲局総裁・元老院議長を務める。1890年(明治23年)7月10日、貴族院伯爵議員に就任したが[2]、同年11月18日、枢密顧問官となって[3]、同年11月25日に貴族院議員を辞任した[2][4]。皇室典範の制定に関与したが、明治27年(1894年)に44歳で死去。 父・柳原光愛は蔵人、権右中弁兼右衛門権佐、従一位、侍従[5]。廷臣八十八卿列参事件に参加。 家督は正室初子(1854-1936)との間に長男・義光が継いだ。明治天皇の側室で大正天皇の生母の柳原愛子は妹である。白蓮事件で知られる歌人の柳原Y子(白蓮)は次女(妾で幕臣新見正興の娘である芸者“りょう”との間の子)である。また、長女の信子は入江為守子爵に嫁いだため、大甥にあたる昭和天皇の侍従長でエッセイストとしても有名な入江相政は前光の孫にあたる。
生涯
親族
栄典
位階
明治元年4月22日 - 従四位下[6]
明治2年7月8日 - 従四位[7]
明治4年4月27日 - 正四位[6]
1883年(明治16年)10月24日 - 従三位[6]
1890年(明治23年)2月7日 - 従二位[6]
1893年(明治26年)5月19日 - 正二位[6]
勲章等
1874年(明治7年)5月19日 - 金時計一個・絹二匹[7]
1877年(明治10年)12月15日 - 勲二等旭日重光章[6]
1878年(明治11年)4月29日 - 木盃一個[7]
1883年(明治16年)
1月24日 - 褒状[7]
4月6日 - 木盃一個・褒状[7]
1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵[6][8]
1885年(明治18年)12月17日 - 木盃一個[7]
1887年(明治20年)6月18日 - 木盃一個[7]
1888年(明治21年)5月29日 - 勲一等旭日大綬章[6][9]