柔道
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柔道じゅうどう

使用武器徒手
柔道形において、日本刀木刀)、短刀棒術、対拳銃など
発生国

日本発生年=1882年明治15年)
創始者嘉納治五郎
源流

天神真楊流起倒流柔道
派生種目ブラジリアン柔術ヨーロピアン柔術
主要技術投技固技当身技
オリンピック競技あり1964年1972年 - )
公式サイト ⇒全日本柔道連盟
国際柔道連盟 (IJF)
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柔道(じゅうどう / Judo)は、嘉納治五郎が興した日本の武道。日本伝講道館柔道(にほんでんこうどうかんじゅうどう)とも呼ばれる。オリンピック正式競技にもなっている。国内競技連盟全日本柔道連盟(JJFJ)、国際競技連盟国際柔道連盟(IJF)。

柔術修行に打ち込み修めた嘉納がさまざまな流派を研究してそれぞれの良い部分を取り入れ、1882年明治15年)にその考察から創始した文武の道である[1][要文献特定詳細情報]。「柔能く剛を制す(じゅうよくごうをせいす)」の柔の理を発展させ、さらに自らの創意と工夫を加えた技術体系の、心身の力をもっとも有効に活用した「精力善用」「自他共栄」の原理を完成させる。
概説

古武道柔術から発展した武道で、投技固技当身技を主体とした技法を持つ。明治時代に警察学校に普及し、第二次大戦後には国際競技連盟の国際柔道連盟の設立やオリンピック競技に採用されるなど、世界的に普及している。

スポーツ競技格闘技でもあるが、講道館柔道においては「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、競技における単なる勝利至上主義ではなく、武術の修得・修練と、身体・精神の鍛錬と、教育と、社会生活への応用・日常生活への応用[2]を目的としている[注釈 1]

IJFでは2015年8月アスタナの総会で採択された規約前文において、「柔道は1882年、嘉納治五郎によって創始されたものである」と謳っている[3]
歴史
柔術から柔道成立まで「柔術#歴史」も参照

柔道の歴史保恒年から嘉納治五郎に授与された「日本伝起倒柔道」の免状(明治16年)。柔道という用語は嘉納が学んだ起倒流ですでに使われていた。

古くから、12世紀以降の武家社会の中で武芸十八般と言われた武士合戦時の技芸である武芸が成立し、戦国時代が終わって江戸時代にその中から武術の一つとして柔術が発展した。

1877年(明治10年) に、嘉納治五郎は天神真楊流の福田八之助に入門し、当身技を中心に関節技絞技、投技を含んだ捕手術を由来とする立合や居捕の体系を持ち、乱捕技としての投げ技固技も持つ天神真楊流を稽古した。また、組討を基とし捨身技を中心とした体系と乱捕を伝えていた起倒流柔術を稽古した。

天神真楊流起倒流柔道の乱捕技や形の技法を基礎に、起倒流の稽古体験から「崩し」の原理をより深く研究して整理体系化したものを、これは修身法練体法勝負法としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして柔道と名付け、明治15年(1882年)、東京府下谷にある永昌寺という寺の書院12畳を道場代わりとして「講道館」を創設した。もっとも、寺田満英の起倒流と直信流の例や、滝野遊軒の弟子である起倒流五代目鈴木邦教が起倒流に鈴木家に伝わるとされる「日本神武の伝」を取り入れ柔道という言葉を用いて起倒流柔道と称した例[4]などがあり、「柔道」という語自体はすでに江戸時代にあったため、嘉納の発明ではない。嘉納は「柔道」という言葉を名乗ったが当初の講道館は新興柔術の少数派の一派であり、当時は「嘉納流柔術」とも呼ばれていた。

講道館においての指導における「柔道」という言葉を使った呼称の改正には、嘉納自身の教育観・人生観、社会観、世界観などが盛り込まれており、近代日本における武道教育のはじまりといえる[5]。柔道がまとめて採用した数々の概念・制度は以降成立する種々の近代武道に多大な影響を与えることになる。嘉納のはじめた講道館柔道は武術の近代化という点で先駆的な、そしてきわめて重要な役割を果たすことになる[6]

その歴史的影響力、役割の大きさから柔道は武道日本武道、日本九大武道〈日本武道協議会加盟九団体〉)の筆頭として名を連ねている。

第二次大戦後、日本における武道禁止令の解禁に先んじて、戦前1933年までにドイツにおいて結成されていたヨーロッパ柔道連盟[7][8][9]、1948年にイギリスのロンドンで再建するなど日本国内外の働きかけもあり、日本においても柔道の稽古や試合は次第に再開されていき、1950年、柔道は学校教育における再開を果たす。
警察と柔道明治21年ごろの警視庁武術世話掛。最前列の左から2人目は後に講道館史上初の柔道十段となる山下義韶

嘉納治五郎の「柔道家としての私の生涯」(1928年)『作興』に連載)によれば、明治21年(1888年)ごろ、警視庁武術大会で主に楊心流戸塚派と試合し2 - 3の引き分け以外勝ったことから講道館の実力が示されたという。また、本大会において講道館側として出場した者は、元々は天神真楊流などの他流柔術出身の実力者であった。

この試合のあと、三島通庸警視総監が講道館柔道を警視庁の必修科として柔術世話掛を採用したため、全国に広まっていったという[注釈 2]

日本の終戦後、GHQによる武道禁止令により警察柔道も道場は閉鎖され、この一時期公式の試合を中断することを余儀なくされた。

敗戦による荒廃した世情は犯罪を増長させ、これに対応する警察官は、体力、技術、精神力の向上のため術科訓練の必要性が改めて見直されることとなった。法の執行者として犯人の制圧、逮捕は警察官の責務であり、この能力に欠ける警察は治安維持の重責を果たせない。当時の国家地方警察本部はこの点を楯に、逮捕術の基礎訓練に柔道が必要不可欠であると、GHQに改めて柔道の復活を申請した。このような経緯を経て戦後警察柔道はいち早く復活を認められた。戦後、警察柔道の復興は、警察官の士気を高揚させ、治安情勢の悪化した日本の秩序回復に大きく貢献している。

心身の鍛練により明朗剛健な警察官を養成するには、柔道訓練は不可欠とした警察の職務性が糸口となり、戦後衰退した日本柔道をいち早く軌道に乗せている[10]

日本の警察官は柔道または剣道(女性のみ合気道も)が必修科目となっている。警察学校入学時に無段者の場合、在校中に初段をとるようにしなければならない。警察署では青少年の健全育成のための小中学生を対象にした柔剣道教室を開いていることも多い。警察官の大会は「警察柔道試合および審判規定」によって行われる[11]
大日本武徳会における柔道詳細は「大日本武徳会#柔道」を参照

1895年(明治28年)、武道の奨励、武徳の育成、教育、顕彰、国民士気の向上を目的として京都に公的組織として大日本武徳会が設立された。大日本武徳会は、剣術、柔術、弓術など各部門で構成され、各部門には諸流派・人物がそれぞれの流派を超越して参加することになる。

講道館柔道は、嘉納治五郎が大日本武徳会の創設時から柔術部門における責任者にあり「大日本武徳会柔術試合審判規定」「大日本武徳会柔術形」「段位制」「称号制」の制定において委員長として柔術諸流派の委員をまとめて大きく影響を持った。

大日本武徳会において講道館柔道は柔術部門を統一する役割の流派として正式採用され教授者を派遣し、1919年には柔術部門は柔道部門と改称し統一し、大日本武徳会武道専門学校で稽古がされた。磯貝一永岡秀一田畑昇太郎栗原民雄などが大日本武徳会における主任教授を担当している。武徳会において柔道は柔術諸流派の人材や技法を吸収し発展した。また大日本武徳会柔道部門には空手捕縛術も柔道傘下に置かれていた。戦時中の柔道については「#日本軍への採用・影響」を参照

1946年(昭和21年)11月9日、大日本武徳会連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により強制解散し、柔道は武道禁止令の影響を大きく受けることになる。

しかし、日本における武道禁止令の解禁に先んじて、戦前1933年までにドイツにおいて結成されていたヨーロッパ柔道連盟が、1948年にイギリスのロンドンで再建するなど国内外の働きかけもあり、国内においても柔道の稽古や試合は次第に再開されていき、1950年、柔道は日本における活動再開を果たす。
学校教育での柔道

日本の学校教育においては、1911年(明治44年)7月の中学校令施行規則改正時に、体操科の内容として従来の教練及び体操の他に「撃剣及柔術ヲ加フルコトヲ得」(13条)とされ[12]旧制中学校の正科として柔道が剣道とともに採用された[13]。経緯については「講道館#体育としての柔道(体育法)および「#体育としての柔道(体育法)」を参照

太平洋戦争後、占領軍 (GHQ) により学校で柔道の教授が禁止されて以降、武道は一度禁止されたが、1950年(昭和25年)に文部省新制中学校の選択科目に柔道が採用された。次いで1953年(昭和28年)の学習指導要領で、柔道、剣道相撲が「格技」という名称で正課の授業とされた[要出典]。1989年平成元年)の新学習指導要領で格技から武道に名称が戻された。2012年(平成24年)4月から中学校体育で男女共に武道(柔道、剣道、相撲から選択)が必修になった(中学校武道必修化)[14][15]
学校体育と柔道

日本では部活動としてほとんどの中学校高等学校、多くの大学に「柔道部」があり、中学校高等学校では学習指導要領に沿った形で生徒の自主的、自発的な参加による課外活動の一環としての部活動が行われている。警察や社会体育中心にやってきた日本の柔道だが20世紀終盤までに男子柔道の主力選手はこの学校体育大学柔道の学生およびそのOBの柔道家が中心となっており、日本以外への普及活動、柔道競技の近代化も大学柔道の柔道家が中心になって行っていたと彼らは自負していた。


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