柏通信所
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柏通信所施設配置図(1960年代後半)

柏通信所(かしわつうしんじょ、Kashiwa Communications StationまたはKashiwa Communication Site)は、かつて千葉県柏市大字中十余二字元山・大字十余二字南前山・流山市駒木台にかけて存在したアメリカ軍の通信施設。通称「キャンプ・トムリンソン(Camp Tomlinson)」。なお、隣接地で航空自衛隊によって現在も運用されている柏送信所は、自衛隊独自の指揮管理に関する送信業務を主として行うため、1956年(昭和31年)に設置されたもので、柏通信所の機能や任務とは関係ない[1]
概要

施設番号:FAC 3035

所在地:千葉県柏市大字中十余二字元山・同市大字十余二字南前山の各一部(現:柏市
柏の葉一丁目?六丁目)、流山市駒木台の一部(現:柏市柏の葉三丁目)[† 1]

総面積:約188ha(20,295,378.72平方フィート[2][3]

1950年(昭和25年)から翌年にかけて柏飛行場跡の開拓農地をアメリカ軍が接収、1954年(昭和29年)から1975年(昭和50年)まで国外送信所として使用し、一部返還を経て1979年(昭和54年)に全面返還された。
沿革
通信施設の建設追加提供された給水塔・1954年(昭和29年)

旧陸軍が1938年(昭和13年)に建設した柏飛行場は、敗戦のため1945年(昭和20年)10月20日にアメリカ陸軍第112騎兵連隊戦闘団(112th Cavalry Regiment Combat Team)の機関砲中隊によって占領されたが[4]、11月には食糧増産緊急事業として農地転用が決定された。この決定によって、周辺に居住していた旧小作農や引揚者、旧軍人・軍属などが入植して開拓が始まり[5][6]、間もなく占領部隊は撤退した[4]。その後、柏飛行場は1947年(昭和22年)に大蔵財産から農林財産に所管換えされ、1949年(昭和24年)、農地として柏地区開拓農業協同組合に売渡された[6]

しかし、翌1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発したことから、アメリカ軍は同年7月10日に旧柏飛行場の中央部分に位置する開拓農地約5,000坪を通信施設用地として接収し[7]、さらに翌年6月10日には、用地拡張のため開拓農地のほぼ全域に相当する約56万坪の土地を接収した[8]。これらの接収財産は事実上使用されない状態が続いていたが、1952年(昭和27年)7月26日、日米行政協定第2条第1項に基づく政府間協定(「個々の施設及び区域に関する協定」)が締結されたことにより、無期限使用施設としてアメリカ軍に提供することが決定された[2]。また、同年12月3日には施設・区域の規模が最終決定され[9]、旧柏飛行場総面積約264haのうち、約188haが通信施設用地として提供されることになった[3][2]

土地所有者からはこのような措置に反対する動きが起きたが、施設・区域内の民有地は、オペレーションエリア(通信作業地区)敷地のみを買収し、アンテナフィールドは賃貸借契約とする方針が通知され、専用地区(立入禁止地区)以外は従来通りの農耕・居住・通行を認める使用条件が設けられることになった[2]。アメリカ軍は、東京都江東区辰巳に設置していた無線送信所[† 2]の代替施設を必要としていたため、早期提供を求めて1953年(昭和28年)1月19日から使用準備に向けた立入調査を実施し[9]、旧飛行場兵舎地区に残っていた給水塔も追加提供されることとなった[3]。その後、土地所有者との折衝が妥結したことを受けて、同年10月1日から通信施設の建設工事が開始された[9]
アメリカ陸軍使用時

1954年(昭和29年)5月1日[9]、ハーディー・バラックス(FAC 3004、 東京都港区[† 3]から移駐した極東軍通信役務大隊C中隊(Charlie Company, 8235th Army Unit, Far East Command Signal Service Battalion)[† 4]によって、柏無線送信所としての運用が開始された。また、これに伴って同大隊の本部中隊もキャンプ・ドレイク埼玉県朝霞市)へ移駐した[20]
通信システムの概要

当時、アメリカ陸軍はACAN(Army Command and Administrative Network)という短波無線の海外長距離通信網を運用していた。これは主にラジオテレタイプ印刷電信機)が用いられていた通信システムで、メリーランド州フォート・デトリックを起点に、38カ所の中継拠点によってアメリカ本土とヨーロッパ、アジア・太平洋、中米、東アフリカの各地域が結ばれていた[21]。世界各地に設けられた中継拠点は、マイクロウェーブ通信回線ケーブル通信回線によって連結された送信所、受信所、中継局の3つの施設が一組となって構成されており[22][† 5]、短波無線で受信したテレタイプメッセージの電気信号を受信所が中継局へ送ると、中継局はテレタイプ信号を半鑽孔テープに記録して受け取り、これをオペレーターが複数のテレタイプ回線へ宛先別にメッセージを振り分ける装置[† 6]にセットして信号を送信所へ送ると、送信所は中継局から送られてきた信号を海外の中継拠点へ向けて再び短波無線で送信するという仕組み(テープ中継)で機能していた[26][27][† 7]

柏無線送信所は中央工業地区(FAC 3139、埼玉県和光市[† 8]に設置されていた中継局や[27]大和田無線受信所(埼玉県新座市)とともに、日本におけるACANの中継拠点(一次中継局: Primary Relay Station, RUAP Tokyo)を構成することになり[21]、中央工業地区からマイクロウェーブ通信回線を経て送られてきたテレタイプ信号を、通信局舎内の送信機から架線で接続されていたロンビックアンテナを使って、アンカレッジシアトルサンフランシスコハワイ沖縄マニラサイゴンソウル釜山のアメリカ軍通信施設へ向けて短波で送信していた[31]。また、この他にも「VIPサーキット」と呼ばれていた専用回線を使って、航空機で移動中の軍司令官などにも情報を送信していた[32]。なお、柏無線送信所と中央工業地区の中継局との間はマイクロウェーブ通信回線のみによって接続されていたことから、予備のため、アメリカ極東軍(FEC)の司令部が置かれていたパーシング・ハイツ(FAC 3001、東京都新宿区)との間にもマイクロウェーブ通信の直通回線が設けられていた[33]
通信網と部隊名の変遷

柏無線送信所開設当時、首都圏にはアメリカ陸軍通信軍団(U.S. Army Signal Corps)の二個通信大隊が駐留していた。一つはキャンプ座間神奈川県座間市)に本部を置いていた日本通信役務大隊(Japan Signal Service Battalion)で、アメリカ極東陸軍(AFFE)の下で国内の陸軍施設間を繋ぐ通常の通信任務を担当していた[16]。もう一方の極東軍通信役務大隊は、陸・海・空三軍の統合軍(Unified Command)だったアメリカ極東軍司令部に関する通信や、ACANの運用を中心とした海外との長距離通信を主に担当しており、1955年(昭和30年)には部隊の名称を「信号海外通信大隊」(Signal Overseas Communications Battalion)に変更した[17][† 9]


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