柏文蔚
プロフィール
出生:1876年6月8日
(清光緒2年5月17日)
死去:1947年(民国36年)4月26日
中華民国上海市
出身地: 清安徽省鳳陽府寿州
職業:軍人・政治家・革命家
各種表記
繁体字:柏文蔚
簡体字:柏文蔚
?音:B?i Wenwei
ラテン字:Pai Wen-wei
和名表記:はく ぶんい
発音転記:バイ・ウェンウェイ
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柏 文蔚(はく ぶんい)は、清末民初の軍人・政治家・革命家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党でも要人となった。字は烈武。 1896年(光緒24年)、秀才となり、その後、安徽大学堂に入学した。1902年(光緒28年)、趙声と南京で強国会を組織し、反清を謀る。しかし事が洩れ失敗し、安徽省へ戻って安徽武備学堂に入学した。 1904年(光緒30年)、安徽公学の教員となる。1905年(光緒31年)、陳独秀らと岳王会を組織し、南京分会分会長となった。同年9月、南京第9鎮第17協第33標第2営管帯となっていた趙声の招聘に応じ、南京で同営前隊隊官となる。趙声が第33標標統となると、柏文蔚は第2営管帯となった。 1906年(光緒32年)、中国同盟会に加入した。この年の秋に、柏文蔚は同郷の孫毓?と共謀し、両江総督端方を爆弾で暗殺しようと謀る。しかし失敗して東北へ逃れ、吉林省の胡殿甲
事跡
清末の活動
1911年(宣統3年)夏、馮徳麟・藍天蔚らと東北での蜂起を計画した。しかし同年10月10日に武昌起義が勃発すると、柏文蔚は南へ戻り、南京攻略戦に参加した。同年11月、柏文蔚は寧軍第1軍統制を号している。
1912年(民国元年)1月に南京で中華民国臨時政府が成立すると、3月、柏文蔚の軍は浦口駐屯の中華民国第1軍となり、第1師(駐浦口)、第4師(駐安徽臨淮関)、第9師(駐徐州)を隷下に置いた[1]。4月、柏文蔚は安徽省の政治的混乱を鎮圧するために、軍を率いて安徽省に入る。そして孫毓?の後任として署理安徽都督兼民政長に任命された。7月、柏文蔚は正式に安徽都督に任命され、9月に陸軍中将位を授与された。柏文蔚は、安徽省の統治者として、アヘン禁止などの民政改革に取り組んでいる。
1913年(民国2年)5月、柏文蔚は湖南都督譚延?、江西都督李烈鈞、広東都督胡漢民と連名で、袁世凱に対して善後大借款
に反対する電報を打った。これにより6月、袁世凱は柏文蔚・李烈鈞・胡漢民の3都督を罷免し、あわせて軍を南進させた。7月、柏文蔚ら反袁派の都督は省の独立を宣言、挙兵した。これが二次革命(第二革命)である。しかし、まもなく反袁派は敗北し、柏文蔚は日本へ逃亡した。1914年(民国3年)、中華革命党に入党する。1915年(民国4年)12月に護国戦争(第三革命)が勃発すると、柏文蔚は南洋で護国軍のために資金募集に従事した。1916年(民国5年)2月29日に帰国し、上海に到着した。 1918年(民国7年)10月、孫文が護法戦争を発動すると、柏文蔚はこれを支持し、靖国軍川鄂聯軍前敵総指揮に任命された。その後も孫文の下で軍職を歴任し、1921年(民国10年)5月、総統府顧問に任命される。1922年(民国11年)4月、長江上游招討使に任命された。1924年(民国13年)1月には北伐討賊軍第2軍軍長となり、この月には、中国国民党の中央執行委員にも選出されている。 孫文死後の1926年(民国15年)8月、国民革命軍第33軍軍長に任命され、安徽省各地を転戦した。1927年(民国16年)4月12日の、?介石による反共クーデターでは、柏文蔚はこれを非難する声明を発した。9月、寧漢合流後に、第33軍軍長を罷免され、国民政府委員に異動する。 1928年(民国17年)8月、柏文蔚は反?介石の立場から、中国国民党改組同志会
護法戦争以降
1947年(民国36年)に引退し、同年4月26日に柏文蔚は上海で死去した。清貧な生活を維持し続け、困窮の中での病没であった。享年72(満70歳)。
脚注^ “ ⇒第三? 民国?期??”. 南京市志. 2019年6月1日閲覧。
参考文献
劉敬坤「柏文蔚」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。