.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}柄谷(からたに) 行人(こうじん)2008年のロヨラ大学での講義から
生誕 (1941-08-06) 1941年8月6日(82歳)
日本・兵庫県尼崎市
地域日本哲学
学派大陸哲学、ポスト構造主義
研究分野哲学史、ソクラテス以前の哲学、形而上学、認識論、政治哲学、無政府主義、倫理学、経済学、文芸評論、文学理論、世界史、形式主義など多数
主な概念構造主義・ポスト構造主義・価値形態論の再吟味、トランスクリティーク、アソシエーション、イソノミア、交換様式、その可能性の中心、ゲーデル的問題、建築への意思 など多数
影響を受けた人物
イマヌエル・カント、カール・マルクス、フリードリヒ・ニーチェ、グレゴリー・ベイトソン、バールーフ・デ・スピノザ、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、ソール・クリプキ、ジャック・デリダ、ジグムント・フロイト、ジャック・ラカン、フェルディナン・ド・ソシュール、クルト・ゲーデル、ダフィット・ヒルベルト、ダグラス・ホフスタッター、夏目漱石、柳田國男、坂口安吾、小林秀雄、吉本隆明、秋山駿、江藤淳、中上健次、宇野弘蔵など
影響を与えた人物
ニュー・アカデミズム (日本)、後期クイーン問題、法月綸太郎、浅田彰、東浩紀、國分功一郎、唐鳳、阿部和重、成田悠輔、スラヴォイ・ジジェクなど
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柄谷 行人(からたに こうじん、1941年8月6日 - )は、日本の哲学者、文学者、文芸批評家。兵庫県尼崎市出身。本名は柄谷 善男(からたに よしお)。筆名は夏目漱石の小説『行人』にちなむとされているが、本人は「kojin」という語感と響きから偶然思いついたと語っている[1]。
「国家」「資本」「ネーション」とは区別されるものとして、近年は「アソシエーション」という言葉を強調している。
『意識と自然ー漱石試論』(1969年)で論壇に登場。言葉と人間との関係を追究し、近代を読み直す。著書に『意味という病』(1975年)、『坂口安吾と中上健次』(1996年)、『帝国の構造』(2014年)、『世界史の構造』(2015年)など。 1966年5月6日、「思想はいかに可能か」が第11回五月祭賞評の評論部門の佳作として『東京大学新聞』に掲載される。筆名は原行人。 1967年3月、東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。修士論文は“Dialectic in Alexandria Quartet”(「アレクサンドリア・カルテットの弁証法」)。4月、國學院大学非常勤講師に就任。5月15日、「新しい哲学」が第12回五月祭賞の評論部門の佳作として『東京大学新聞』に掲載される。筆名は柄谷行人。 1969年、夏目漱石を主題とした「<意識>と<自然>―漱石試論」で第12回群像新人文学賞評論部門を受賞[2]。文芸批評家としてのキャリアをスタートさせる。20代の柄谷は、吉本隆明を高く評価していたことが初期論文の「思想はいかに可能か」や「心理を越えたものの影」からうかがわれる[3]。また、評論に夏目漱石を選んだのは、『漱石とその時代』等の漱石論・保守派的な論客で知られる江藤淳に読んでもらいたかったからだという。同じ年の『群像』11月号に「江藤淳論―「天」の感覚」を発表。柄谷は若い頃には江藤淳の文章を筆写して文章の練習をしていた。大学院で英文学を専攻したのも、江藤や福田恆存といった好んで読んでいた評論家のバックボーンが英文学だったことによる。1975年にアメリカ・イェール大学に滞在する時、(哲学科や英文科でなく)日本文学の研究・講義をすることになったのも江藤淳の推挙である。 文芸批評家としては「内向の世代」(古井由吉・後藤明生)を擁護。また中上健次とは、デビュー前から友人であり、その作品の終生における同伴者となる。中上の死の時には弔辞も読んでおり、追悼文で「「天才」という言葉を、私は中上健次にだけは使いたい」と述べている[4]。また、デビュー以来の漱石論は断続的に執筆し続け、作品論としては『草枕』『門』『三四郎』『明暗』『道草』『それから』『虞美人草』を新潮文庫版のそれぞれの解説に執筆している[5]。 1971年、『國文學 解釈と教材の研究』1971年1月号「特集=江藤淳と大江健三郎」に「読者としての他者:江藤・大江論争」を寄稿。4月、法政大学助教授に就任。 1972年、『文學界』7月号に「夢の世界―島尾敏雄と庄野潤三」を発表。 1973年、新左翼運動衰退のメルクマールとなる連合赤軍事件を暗に主題とした「マクベス論―悲劇を病む人間」を『文藝』1973年3月号にて発表。以降「内面への道が外界への道である」[6] として、文芸批評の枠を超え、理論的(再)吟味を中心とした仕事を数多く行うこととなる。その中心にすえられたのが、価値形態論を中心としたマルクス『資本論』の読み直し・再解釈である。いままでのマルクス・レーニン主義の視点からでないマルクスを発見する、そして新たな連帯・コミュニケーションの形を見つけ出す、という目論見に基づくものであった。 1973年「マルクスその可能性の中心」連載を『群像』で開始(1978年出版)。商人資本における剰余価値は不等価交換ではなく空間的な価値体系の差異から生まれ、産業資本における剰余価値は技術革新による時間的な価値体系の差異から生まれるという、カール・マルクスとも宇野弘蔵とも異なる認識を、ソシュール言語学に基づいて、示した[7]。
経歴
1960年代
1970年代